藤棚 024

「お前の兄貴はどこで死んだんだ?」
口から飛び出た台詞がなぜか俺を戸惑わせた。けれど止めることはなぜかできなかった。
「どこって、パリのアパルトマン。多分3区。窓から川が見えた。その部屋。」
「どうやって死んだんだ?」
「詳しく知らない。」
「知らないわけないだろう。親に聞いてるだろうお前。しつこく、何度も。」
 繰り返し。こいつが兄の死んだ状況を尋ねないわけがない。聞いて再現する。頭の中で。目の前でその惨劇が行われているかのごとく。
 玲は子供が歯を食いしばるような表情で俺を見返した。
「薬を、少しづつ、水に溶かして、飲んだの。時間をかけて。一度に飲むと、寝てしまうから。多分、二時間ぐらい。テーブルには、空になってコップが十個。水の入ったままのコップが綺麗に同じ数だけ、並んで、中には、睡眠導入剤が、入ってた。兄は、それを飲みながら、映画を観ていた。道 っていう白黒の、つまらない映画。なぜあれを選んだのか、わからない。変な映画。」
そこまで言うと玲は深くため息をついた。
「私、同じことをしてみた。馬鹿みたいでしょ。もちろん、死ぬ気持ちにはならなかったし、大体、そこへ行き着く間の出来事の方が、重要なのに、でも私は最後しか知らないから。」

 

 

藤棚 023

押して引いた欲望と躊躇と哀れみの隙をぬって魚のように彼女は俺の両腕から逃れると片方の手のひらで俺の顔を塞いだ。
「それは正しいことじゃない。」
固さを含んだ声だった。
「それは正しいことじゃない。今はその時じゃない。私は、こんなふうに人と寝たくない。貴方とでも。意味がない。何も残らない。過ぎ去る風みたいなもの。それが五月の風でも、私の髪を優しく撫でてゆくだけ。」
「それは違う。」
「違わない。貴方は私をただ可哀想だと感じているだけ。頼りない女の子が兄を無くしておぼつかない足取りで生きてるのを見て憐れんでるだけ。卑下してるわけじゃないの。少しは可哀想だって自分でも思うけれど、でも、運命に抗ってもどこにも行けない。貴方の腕の中でしばらく休めたとしても、私は自分の重荷を抱えて生きて行くほかないの。だから今じゃない。」
じゃあいつ、という言葉が出かかった。でもその言葉を俺は飲み込んだ。目の前の玲はもう泣いてはいなかった。人生の大半を諦めた人のような表情で俺を見て微笑んだ。

 

 

藤棚 022

窓を開けると初めてここへ来た日のような、生あたたかな風が吹き込んできた。低気圧が近づいて東南の湿った風がこれから吹き荒れるらしい。雲は低く垂れ込め、庭の木々は色濃く生い茂り水を含んだように重く垂れている。
 池の石の先端に玲の立っている姿が見えた。手元に抱えた腕に手を突っ込むと勢いよく餌を撒いた。池の鯉が跳ねる。餌を撒く。また鯉が跳ねる。撒く。跳ねる。俺は頬杖をつきその姿を見つめながら昨夜のことを思い出していた。

藤棚 021

「玲、どうする。この先に進む?それとも。」
選択肢を彼女に委ねるのは卑怯だろう。けれど俺はかろうじて冷静さを失わずにいる頭の隅で考えてる。これは愛じゃない。欲望に近い。でもそれ以上に彼女の望むセックスだ。癒しと医療を混ぜて濁流から引き上げる作業だ。俺が流される前に決めなきゃならない。
「本当は実の兄貴とこうしたかったんだよな。」
責めてどうするんだ。理性ではわかってる。でも言わずにはいられない。
「どうしたい?初めてだよな。このまま俺と寝る?俺はお前が望むようにしてやれる。目を閉じて、ああ、俺の顔はお前の兄貴とそっくりだったんだな。じゃあ俺を見てろ。ずっと。」
違う。と否定する前に口を塞ぐ。身体全体で拒否する彼女を押さえ込む。
「玲、俺は」
先にも言ったとおり、こんなことがしたいわけじゃないんだ。泣く彼女を下に俺は最後の境界線の瀬戸際でため息と共に台詞を吐いた。
「俺がお前にしてやれることはこのくらいだよ。お前がこの先どうなるのか俺にはわからない。けれど、お前が望むならいつでも駆けつける。そしてお前の兄貴のつけた傷口を塞いでやる。これから先も、望むのなら。」
「兄さんは私を傷つけたりなんかしていない。」
そうだな。と言って俺は深い海の底の色をした、ナイフの突き刺さったままだという彼女の胸に顔を埋めた。

 

 

 

藤棚 020

波の音がする。寄せては返す波の音に耳を澄ませる。夏の太陽の燦々と照りつける砂の上で、目を閉じている。親戚の集い、従姉妹に、見知らぬ子がいた。不思議そうな顔で俺をじっと見つめていた。
 瞼をかすかに開ける。その子の足がこっちに向かって勢いよく走ってくる。砂を蹴って、熱風に舞い焼けた砂浜に散る砂を俺は横目で見遣る。
「恭爾さんて、私の兄に似てる。そっくり。」
側まで来て俺の顔を覗き込んだ。太陽の光で彼女の顔は見えない。
「多分隣に立ったら見分けがつかないわ。兄の方が少し髪が長いかな。でもそんな些細な事どうでもいいほどよく似てる。」
 俺はゆっくりと起き上がる。髪についた砂を払い上着を着ながら女に言い放つ。
「あんた誰。」
初対面で気安く話しかける女を俺は信用しない。血が繋がってる分差し引いても笑顔を見せる義理は無い。
「恭爾さん、前も私にそう言った。」
女は楽しげに笑った。
「いい加減、私の名前を覚えるべき。私自身も。」
「前も会った?」
「叔母の結婚式で。その前は従姉妹の七五三で。そのまた前は祖父のお葬式で。」
俺は頭を抱えた。
「私いつも貴方を見ていた。出逢うたびちゃんと自己紹介もするの。貴方、困った顔をして、何も言わないんだけど。私の顔と名前ぐらいは、もう覚えてくれても、いいんじゃないかな。

 

 

藤棚 019

玲の頬が色づいた。目と瞳孔がわずかに大きくなった。俺は彼女の火照った頬を両手で包み込んで唇を重ねた。もうそれ以上死人の話をするなとでもいうかのように。全部終わったんだ。終わった話を繰り返したってどうにもならないだろう。舌先が彼女を求める。花の蕾を無理矢理こじあけるように蜜を求める。頑なな舌は俺を拒否する。それがどうだっていうんだ。両手にちからを込めて頬を固定する。そんなに死人のことばかり口走るなら俺の下で窒息して死んでしまえと念じた。
 
世界が色づき始めるのを知ればいい。
「玲」
俺は彼女の名前を呼んだ。
「玲」
両手で隠した顔に俺は呼びかける。想像し得る限りの優しさを込めて。
「俺を見て」
彼女は被りを降った
「恥ずかしがらないで。俺を見て。玲にキスしている間、音楽が流れてた。頭の中で。」
掌は顔を覆ったままだ。
「二つのヴァイオリンのためのパルティータ。俺は、たまに、あれをひとりで弾くんだ。どうしようもなく、腹の立ったとき、世界の全てを、呪いながら。」
俺は彼女の細い手首に触れ、深くため息をついた。
「俺は本当はこんなことがしたいんじゃないんだ。」
言葉とは裏腹に、身体が勝手に動いてゆく。
「ごめん、玲。」
彼女の両手をそっと包み込んだ。
「俺は、もっと静かで、優しい、キスがしたい。」
許してくれるのなら、平均律のような-------キスが。」
したい。という言葉は彼女の口の中で消えた。

藤棚 018

「---------------ああ、わかったよ。例えばそうだな。草原に寝転んだ夢見る骸骨みたいな。何処かでそんな絵画を俺はみたことがあるよ。いいな。実に。お前と兄貴の関係の終着点ってやつ。俺が決めていいならそうする。何ならそれと踊ったっていい。悪魔のトリルを傍で俺が弾いてやる。パッとしないつまらない曲だけどな。そうして気が済むまで踊ってればいい。そして疲れ果てて眠っちまえ。目が覚めた時、お前のその茶色い目の中に俺を見つけろ。妙な夢を見てたなって言ってやるよ。眠った分お前は大人になってる。大人の女になってる。そして兄貴の思い出を語れ。長い間夢見た出来事のように。俺はそれを聞き終えた後、ハッピーチューインガムをお前の口にねじ込む。俺の味のするやつ。」