藤棚

藤棚 024

「お前の兄貴はどこで死んだんだ?」口から飛び出た台詞がなぜか俺を戸惑わせた。けれど止めることはなぜかできなかった。「どこって、パリのアパルトマン。多分3区。窓から川が見えた。その部屋。」「どうやって死んだんだ?」「詳しく知らない。」「知らな…

藤棚 023

押して引いた欲望と躊躇と哀れみの隙をぬって魚のように彼女は俺の両腕から逃れると片方の手のひらで俺の顔を塞いだ。「それは正しいことじゃない。」固さを含んだ声だった。「それは正しいことじゃない。今はその時じゃない。私は、こんなふうに人と寝たく…

藤棚 022

窓を開けると初めてここへ来た日のような、生あたたかな風が吹き込んできた。低気圧が近づいて東南の湿った風がこれから吹き荒れるらしい。雲は低く垂れ込め、庭の木々は色濃く生い茂り水を含んだように重く垂れている。 池の石の先端に玲の立っている姿が見…

藤棚 021

「玲、どうする。この先に進む?それとも。」選択肢を彼女に委ねるのは卑怯だろう。けれど俺はかろうじて冷静さを失わずにいる頭の隅で考えてる。これは愛じゃない。欲望に近い。でもそれ以上に彼女の望むセックスだ。癒しと医療を混ぜて濁流から引き上げる…

藤棚 020

波の音がする。寄せては返す波の音に耳を澄ませる。夏の太陽の燦々と照りつける砂の上で、目を閉じている。親戚の集い、従姉妹に、見知らぬ子がいた。不思議そうな顔で俺をじっと見つめていた。 瞼をかすかに開ける。その子の足がこっちに向かって勢いよく走…

藤棚 019

玲の頬が色づいた。目と瞳孔がわずかに大きくなった。俺は彼女の火照った頬を両手で包み込んで唇を重ねた。もうそれ以上死人の話をするなとでもいうかのように。全部終わったんだ。終わった話を繰り返したってどうにもならないだろう。舌先が彼女を求める。…

藤棚 018

「---------------ああ、わかったよ。例えばそうだな。草原に寝転んだ夢見る骸骨みたいな。何処かでそんな絵画を俺はみたことがあるよ。いいな。実に。お前と兄貴の関係の終着点ってやつ。俺が決めていいならそうする。何ならそれと踊ったっていい。悪魔のト…

藤棚 017

「ガムってなに?私と兄さんとの思い出が噛み散らかしたガムってってなに?」「例えばだよ。ガムじゃなくたって別に--------」「訂正して。今すぐ訂正して。訂正できないならもっと良い例えにして。本当にあんたって馬鹿よね。その顔がムカつく。腹ただしい…

藤棚 016

「あのさ、俺は家族の仲はまあいい方だと思うし孤立もしてないし、楽器で語り合う特別な兄弟も友達もいない。お前の喪失感っていうの?何だろうな、俺にはわからないけれども、あえて言わせて貰えば、仕方のないことだよな。お前に原因や責任があるわけじゃ…

藤棚 015

そういい終えると、指先を胸の中央を指して、俺を見て玲は微笑んた。茶色の瞳がビー玉のようだった。俺は額に手をやり、大きくため息をつき、それから彼女の傍に投げやりに腰を下ろすと、もう一度大きくため息をついた。「ひでえ人生だな。」 メンヘラ街道一…

藤棚 014

そこまでいうと玲はソファーに座った。はじめに会ったときのように、両足をソファーに載せて、それを抱えるようにして続けた。「こんな、幻想即興曲まで弾けるようになったのも、兄さんのおかげ。家を出て、たまに帰ってくる間、兄さんの応えが聴きたくて、…

藤棚 013

「私がピアノを習いはじめたのは、兄さんと会話したかったから。別にそれほどピアノが好きってわけじゃない。私の音、少し兄さんににてるの。ほんの少しだけ。兄さんと私、一緒にいる時間が短かったんだ。話しかける時なんてなくて。大抵兄さんは練習してた…

藤棚 012

子供みたいな指が器用に鍵盤上を舞った。こいつも一人前以上に弾きこなす技量を持ってるのかと驚きの眼差しで細い指先が鍵盤を叩くのを見た。音だって悪くない。女の弾いてるのはショパン。幻想即興曲。大した技量だ。兄妹揃って上手いもんだと感心した。「…

藤棚 011

「お前の兄貴のピアノを勝手に触って悪かったな。」 俺は思ってもないことを言った。とりあえず謝っておけばうるさい声を聞かなくて済むと思ったからだ。「兄さんが弾いているように見えた。馬鹿みたい。天と地ほどにも違うのに。あんたが兄さんのわけないの…

藤棚 010

離れ 7 盛大な嫌がらせから、些細なものまで曇天のもとに荒ぶる波の如く俺の人生に押し寄せては繰り返し退いてまた打ち寄せる。そのたびごに心は頑なになり穿つ荒波に痛み何かを失っていった。繊細さや素直さや満ち足りた幸福感のようなものだ。長らく感じ得…

藤棚 009

離れ 6 学校ってとこは個性を殺す。コンセルのような場所は別の意味で才能を潰す。世界でトップに立ちたければあらゆるところで一位を取る必要がある。ジュリアードでもバークレーでも何処でも、圧倒的な1番でい続けなければならない。そこでは妥協は決して…

藤棚 008

離れ 5 昔から俺はピアノという楽器が苦手だった。大きく、重く、そこに在り続ける動かし難い威圧感、圧迫感を、それは俺に与えた。ヴァイオリンは軽さと手頃な大きさゆえに何処へでも運んで行ける。願えば常にそばにあり続けることができるのにピアノときた…

藤棚 007

4 離れ 確かに俺と玲は従兄妹どうしだ。 倩爾だってそうだ。だが子供の頃に遊んだ記憶がない。互いの家が遠いせいもある。母親が実家に頻繁に出向いていなかったためだろうか。それでも従兄弟同士なのだからどこかで会ったことはあるはずだ。葬式や結婚式や…

藤棚 006

玲 3 「ほんと---------------なんでそんなヤツが自殺したんだろうな。」独り言のように、考えてもらちのあかない疑問を弾くように言葉にしたとき、嵐がドアを引き剥がすような大音量が鳴り響いた。振り向くと勝手口に玲が立っていた。暴音はヤツがドアを勢…

藤棚 005

玲 2 夕食に呼びに来たのはお手伝いさんだった。俺をこの部屋に通したのもこのおばさんだ。誰が俺にこの部屋を使うよう聞きたかったがやめた。可能な限り関わらないほうが良いと直感のサイレンが頭上に鳴り響いていた。最後の晩餐だ、多分。俺は仕方なく階段…

藤棚 004

玲 25mのプールほどの大きさのある池を大きく迂回して雨風の中やっと縁側へたどり着いたとき、女が、白い靴下を履いた女が立っていた。白い靴下が目に入ったのはただ目線がそこにあったに過ぎない。だから玲という俺の第一印象は学校指定の白い靴下になった…

藤棚 003

風 3 (その曲知っているわ。セイさんがよくひいていたじゃないの、私好きだったのよ。)そういえばそうねともうひとりが相槌を打った。セイさんというのは誰か俺は問うた。二人は顔を見合わせ、一呼吸おき、貴方の先日亡くなった従兄弟だと言った。母の兄の…

藤棚 002

風 2 藤棚の藤は満開であった。満開の花下で俺の叔母たちは隣り合い身を寄せ合いほほえみつつ俺を待ち受けていた。 (なにか、ごようですか。) 我ながら妙な挨拶だとは思うが滅多に会わぬ二人に何を話せばいいのかわからない。 (なにってことは、ないのだ…

藤棚 001

1 風 その日は身体にまとわりつく湿った風が吹き荒れていた。窓を開けると風は勢いよくなだれ込んで部屋中をかき乱した。俺は急いでベッドから起き上がると机上の紙や書籍をつかみ、飛ばされる前に引き出しへ放り込んだ。ニュースではすでに南方は梅雨に入っ…