藤棚 013

「私がピアノを習いはじめたのは、兄さんと会話したかったから。別にそれほどピアノが好きってわけじゃない。私の音、少し兄さんににてるの。ほんの少しだけ。兄さんと私、一緒にいる時間が短かったんだ。話しかける時なんてなくて。大抵兄さんは練習してたし、食事も皆別々だしね。向こうの離れ、あそこに、ピアノ2台、あるんだけど、私、まだ椅子に座っても床のつかないくらい小さな頃、遊びで、見よう見まねで、きらきら星とか弾いてた。そのとき、兄さんが来て、指の動かし方とか教えてくれて、嬉しかったんだよね。凄く。誰も、家族らしい家族なんていなくて、バラバラで、いつもひとりぼっちだったから、その時の幸せな感じが、脳裏に焼き付いてるの。それで、親にせがんで、ピアノを習い始めたんだけれど、まあ、親は、私のことなんて、どうでもよくて、私自身も、誰にも期待なんかしてなかったから、いいんだけど、兄さんはね、違った。私の音に興味を持ってくれた。それから、私達、ピアノで会話するようになったの。
 兄さんも私も、話すのが苦手で、お互い、なにを話していいのかわからなくて、そんなとき、ピアノが役に立った。鍵盤を叩くと、兄さんが応えてくれる。私のつまらない音に、アレンジを加えて、もっときらきらしたものに変えてくれるの。それを見て、聴いて、私が真似て、そして兄さんはそれに輪をかけて、華やかなものにしてくれる。私嬉しくて、その日あった嫌なこととか、一瞬だけ、忘れられた。兄さんとピアノを弾いている時だけ、幸せだった。あとは、今でも、そうだけど、夜の海に、ひとりで佇んでるみたいな、救いようのない日常が、続いてる。だからって、別に、いいんだけど。」