藤棚 003

風 3

 

 (その曲知っているわ。セイさんがよくひいていたじゃないの、私好きだったのよ。)
そういえばそうねともうひとりが相槌を打った。セイさんというのは誰か俺は問うた。二人は顔を見合わせ、一呼吸おき、貴方の先日亡くなった従兄弟だと言った。母の兄の息子であった。この家の跡取りであり名を倩爾というのだった。俺は彼がピアノを弾くことを知らなかった。
 (外国へ行ったのも、コンセルとかのためだったのよ、あそこへ行かなければまだ生きていたかもわからないわね。)
そうよと着物の袖で眼を拭う仕草をする叔母を見つめながら俺は驚愕した。コンセルといえばコンセルヴァトワールのことだ。それは例えばアメリカのジュリアードやバークレーに値する学舎であり才能を極めた秀才が集う場所に他ならない。従兄にそれ程の才能があり、しかも先に葬式にまで参列した相手の詳細を知らずに居たことに俺はおもわず目眩を覚えた。
 彼について詳しく教えていただけませんか?と身を乗り出し云った。彼女たちの話を要約すると従兄の白藤倩爾は一回り年上で祖母のピアノで手習いを始めたのが三歳、教室で才能を認められたのが六歳、ジュニアコンクールなどには一切出場せず海外での技術習得を視野に入れほぼ学校へは通わず自宅での語学学習とピアノの修練に勤しんだ。晴れて十五の歳にロシアへ渡り著名な教師に手解きを受け三年後に一時帰日。そしてコンセルヴァトワール行きが決まった。
今の時代、特異な経緯を辿った人物であった。
(物静かで線の細い、あまり話さない子だったわ。心に溜め込む性質だったのかしらね)
そして貴方によく似ている、と彼女達は言った。伏し目がちにうつむいた表情が特に。でも彼の物腰の方がずいぶんと柔らかだったけれど、と余計な比較も添えて。葬式時の遺影の顔を俺は覚えていなかった。似てるなど思いもしなかった。そもそも参列時、俺は自分のことしか考えていなかった。白藤倩爾という従兄について、彼の姿形や生き様や死を選んだ身の処し方についても想いを馳せることはなかった。なのに音楽についてーーー音楽という言葉はひどく甘いーーー音楽という接点を見出し急に身近に彼を感じ始めたことに恥じ入り、同時に深く後悔した。俺はもっと早くにここを訪れ彼と出会い音楽を味わうべきだった。G線上のアリアでもいい。二重奏で感性のやりとりが出来たら俺は、少なくとも俺は成長できたはずだ。夏の日差しを受ける蔦のごとくしたたかに伸び、音楽の感性の屋敷を覆ってしまうほどの貪欲さを持って。
(何故、彼は亡くなったのですか?)
質問に姉妹達は口を閉じた。先程までの笑顔は消え、十ほど老いて見えた。
(さあ、どうしてかしら。人は儚くも弱いもの。私の知っている倩さんは、夢の中で生きているような人だったから、世間の水が合わなかったのかもしれないわね。はっきりとした理由は誰も知らないの。自殺なのか事故なのかさえも。向こうはまだ暖房のいる季節で、眠るように亡くなってしまった。防音のマンションじゃ空気の逃げる隙間もないのね。ただ、部屋に残されたものが何もなかったというから、自ら選んだのかもしれないわね。)
確かにこの家の彼の部屋にも、残されたものはなにも無かった。

(彼が亡くなる前に帰宅したのはいつ頃ですか?)
(毎年年末には帰ってきてたわね。トランクひとつで。)
(彼の部屋に物が無くなったのはいつかご存知ですか?)
(もともと物に執着しない子で、持ち物の少ない部屋だったわよ。そういえば数年前、玲さんが部屋を欲しいというので片付けていたのを思い出したけれど。)
れいさん?
(倩さんの妹さん。まだ学生さんね。ーーーそのころから準備していたのかしら。どこか別の場所へ行きたいというのをよく聞いたから。外国へ行くのも願いが叶ってよかったわねと喜んだものだけれど、あまりに遠くへ行き過ぎて残された私達にできることがもうないのは悲しいーーーーーーもしよかったらあの子の映った画像を見てあげて。いい餞になると思うわ。)
俺は姉妹の語る従兄の姿に想いを馳せながら若くして命を絶つ理由について考えていた。理由のわからない死などあるのだろうか。なんとはなしに死にゆく病などあり得るのだろうか?
 重みの増した雲が垂れ込め、空はいっそう暗さに覆われた。一瞬風が途切れる。葉擦れの音も遠くの風の轟々と渦巻く音も聞こえない。
藤棚に静けさがおとずれたとき、ポツリと外れの地に雨が落ちた。俺は急いでヴァイオリンをケースにしまった。そして帰りましょうと姉妹に云った。けれども彼女達は一向に動く気配を見せずにいっそう身を寄せ合い、ここにいれば大丈夫と固く答えた。大雨になりそうですよ、濡れる前に帰った方がいい、とふたりをせきたててもやはり動く気配を見せない。確かに満開の藤棚には蔓が巻きつき、紫の房はこぼれ落ちるほどに無数にたれ下がり、雨の入る隙間は無いように見えた。けれども俺はやはりなんといっても楽器の濡れる可能性を考えて姉妹を置いたまま母屋へ駆た。雨が強くなったら戻って二人に傘を届ければいい。途中、楽器を抱え振り返ったが、変わらず落ち着いた様子で二人はそこにる様子だった。俺は再び、藤棚を背にして死人の、白藤倩爾という従兄の住んだ部屋をめがけ走った。