藤棚 002

風 2

 

藤棚の藤は満開であった。満開の花下で俺の叔母たちは隣り合い身を寄せ合いほほえみつつ俺を待ち受けていた。
 (なにか、ごようですか。)
 我ながら妙な挨拶だとは思うが滅多に会わぬ二人に何を話せばいいのかわからない。
 (なにってことは、ないのだけれども、ねえ。)
二人は顔を見合わせ鏡のように同じように笑った。その間向かいのベンチに俺は腰掛ける。
 (貴方、ヴァイオリンがお上手ね。)
 (はぁ。)
 (習ってどのくらいになるの?)
 (・・・十四年ほどです。)
 (いつからはじめられたの?)
 (・・・三才でしょうか。)
 可愛らしいわね。そう云うと双子のようにお互いを見つめ合って笑った。この二人は未だ結婚していないのだ。母とはかなり年の離れたお互い年子だと聞いている。妙に間の抜けた返答は明治時代の小説に登場する女学生を思い起こさせた。その理由に着物を着ているせいもあったかもしれない。
お揃いなのよ、と二人は袖を振りあって俺に見せた。色違いのそれは藤の花を彩ったものでもあった。
 相変わらず風は止まず藤棚の下を通り抜けていった。花の房をゆらしわずかながら花弁を散らせた。葉擦れの音が耳元でうるさいくらいに鳴り合った。曇り空の天気の悪い日によりによって着物まで着て藤棚に集う理由が俺にはわからなかった。普段の習慣なのかもしれないし特別な催しの可能性もあったが聞いてどうするというのか。それでも黙って奇妙な姉妹の前に腰掛けているのも居心地の良くないものであった。俺は仕方無しにわざわざ持ってきたヴァイオリンのケースを開いた。なにか弾きましょうか?と問う前に姉妹は興味深げにケースを覗いた。初めて見る顔つきで神妙に楽器を見つめ殊勝にも触っていいか尋ねたので笑みを持って了承した。
 当時俺は2本のヴァイオリンを持っていた。ひとつはメインの楽器、もう一つは壊れてもいい価値のない移動用のものだ。もちろんその時に手にしていたのはどうでもいいと言うには語弊があるがそれに近い代物だった。姉妹はネックの部分の弦に触れわずかに音色を響かせた。音は小さく鳴って弦の上を転がった。
弓を張り松脂を塗る。首宛をセットし顎で挟む。一連の動作を彼女達は興味深げに目で追っていた。人に見られるのは慣れていたけれども近場でまじまじと見つめられるのは久しぶりだった。その行為に俺は外界に線を引くまじないのような意味を付与していた。世界と自分を切り離す仕草だ。ただこのときは姉妹の4つの眼を遮ることは難しく俺は少しばかりうろたえたのだった。

 さて、風の吹きすさぶ藤棚の下で何を弾くか。髪を乱しシャツの隙間を駆け抜ける湿った風を真に受け一瞬、迷った。ラヴェルのツィガーヌが頭をよぎったがさすがに姉妹に聴かせるには重すぎる。無難にG線上のアリアを弾いた。G線のみを使って情感に溢れた旋律を奏でた。その選曲は吹く風も地を覆う灰色の雲も藤の花も姉妹さえも考慮に入れない独断だった。俺は多分、あのとき、その場にいたくはなかったのだ。弾きながら先程まで居た部屋の窓をとらえていた。遥か向こうの窓から手をふる姉妹を見つけた、かつては従兄弟の、今は死人の部屋の窓を。
 最後の一音を弾き終え弓をはなす。同時に姉妹の感嘆と拍手が鳴る。彼女達の胸に響いたのだろうか、演奏後に俺はそれが誰であれ気になるのだ。素敵だったと二人の揃った声に嘘は見当たらなかった。ホッとしてベンチに座ると姉妹の一人が俺に言った。