藤棚 001

1 風

 その日は身体にまとわりつく湿った風が吹き荒れていた。窓を開けると風は勢いよくなだれ込んで部屋中をかき乱した。俺は急いでベッドから起き上がると机上の紙や書籍をつかみ、飛ばされる前に引き出しへ放り込んだ。ニュースではすでに南方は梅雨に入ったという。それでこの水を含んだようなどことなく甘い官能的な-----------それは奇妙な表現だが----------独特な風合いの風がふいているのだろうか。この種の風が俺は苦手だった。嫌な思い出がふとよみがえってくるのだ。季節柄関係のないことまでランダムに次から次へと頭をよぎっていく。かといって窓を締め切ってへやに閉じこもることもしない。嫌でたまらないのに誘われると断れない女の頼み事みたいな風だ。
 連休の初日、母の実家へ俺は訪れていた。気乗りのしない旅行だった。その年のはじめにこの家では死人が出ていた。年上の従兄が死んだ。事故か自殺かそのへんは曖昧にされていたが、葬式に参列したときにふと聞いた話では自殺だろうと親戚中の噂になっていた。幸いというべきか彼はこの家で命を絶ったのではなかった。遠い国の遠い場所で死んだ。その遠さと同じ程度に俺には関係のない出来事に思えた。おそらく会った回数も数えるほどで遊んだ記憶が皆無だからだ。だから俺は家人にこの部屋を使うように、と通されたときも躊躇は無かった。いや、多少驚きはした。この家の人々の節操の無さについてだ。
 家は広く、けれども古色蒼然とした和室の並ぶ、プライバシーの無い造りゆえにと思いたい。今俺のいる部屋はその死んだ従兄弟の個室なのであった。
 そもそもこの旅行を勧めたのは母だ。理由は寂しがっている家人達を慰めるようにという馬鹿げた考えからだった。十も年下の俺を見て死人を明確に思い出しはしないだろうが、それでも老人たちのなかに幼い俺を見て亡くなった子供の片鱗を見つけるのに難くはないだろう。そんな心配をよそにこの家の住人たちは俺を死人の部屋に案内してここを使えと言った。
 たった7日ほどの休日の間の話だ。そして俺は幽霊なども信じてはいない。生きていた人間の残滓が部屋にこびりついているだけだ。それをどうこうするつもりも無かったし指先でなぞってかつての生きた証をたどり感傷に浸る気持ちも持ち合わせてはいなかった。おそらく彼の海外へ旅立ったのは数年前になる。その間の空白に彼の存在はこの部屋では希薄になり俺の感じ得る存在も無いに等しい。その証拠に部屋の戸棚はすべて空っぽで生きた記録をたどる物がなにも無かったのだ。仕方なく俺は学校の課題広げ(死人の使っていた机に、だ。)たまにヴァイオリンを弾いた。
 ヴァイオリンの音は部屋によく響いた。窓を締め扉を締め音のもれぬよう気を使い、(実際はもれていたにちがいない)することもないのでひたすらアルペジオを弾いた。俺のアルペジオの好きな理由は余計なことを考えなくて済むからだ。何故俺の祖父は俺にストラディヴァリウスを弾かせようとはしないのか、何故俺の祖父は俺だけに酷く厳しいのか、等湧き上がる想念が一曲に比べて少ない。黙々と音階を奏でてゆく。聞こえる方は全く迷惑な話だが仕方ない。
 その日、起き抜けに窓を空けその忌まわしい風を全身に受けつつ、ふと窓の外をみると彼方に藤棚が見えた。この家の庭は広い。歩けば結構な運動になる。それはかつて母が言ったお大臣の家の庭のようなものだ。池と石山と松林の向こうに僅かな紫色の藤棚が見る。そして藤棚の下には女が二人、立ち上がって窓に立つ俺にしきりに合図を送っているのだった。
 (母の妹の二人にちがいない)
一人は手招きで俺を呼び寄せ、もうひとりはおそらくヴァイオリンをもってこいというジェスチャーを米粒ほどの大きさの姿で俺に伝えている。遥か彼方に見える姿に目を凝らし意味を捉え、わかったと承諾の合図として手を振った。納得したのか彼女達が椅子に腰掛けるのを見届けると俺は急いで着替え、水を飲み楽器を抱えて藤棚を目指した。