藤棚 023

押して引いた欲望と躊躇と哀れみの隙をぬって魚のように彼女は俺の両腕から逃れると片方の手のひらで俺の顔を塞いだ。
「それは正しいことじゃない。」
固さを含んだ声だった。
「それは正しいことじゃない。今はその時じゃない。私は、こんなふうに人と寝たくない。貴方とでも。意味がない。何も残らない。過ぎ去る風みたいなもの。それが五月の風でも、私の髪を優しく撫でてゆくだけ。」
「それは違う。」
「違わない。貴方は私をただ可哀想だと感じているだけ。頼りない女の子が兄を無くしておぼつかない足取りで生きてるのを見て憐れんでるだけ。卑下してるわけじゃないの。少しは可哀想だって自分でも思うけれど、でも、運命に抗ってもどこにも行けない。貴方の腕の中でしばらく休めたとしても、私は自分の重荷を抱えて生きて行くほかないの。だから今じゃない。」
じゃあいつ、という言葉が出かかった。でもその言葉を俺は飲み込んだ。目の前の玲はもう泣いてはいなかった。人生の大半を諦めた人のような表情で俺を見て微笑んだ。