藤棚 008

離れ 5

 

昔から俺はピアノという楽器が苦手だった。大きく、重く、そこに在り続ける動かし難い威圧感、圧迫感を、それは俺に与えた。ヴァイオリンは軽さと手頃な大きさゆえに何処へでも運んで行ける。願えば常にそばにあり続けることができるのにピアノときたら、高慢な女に似て私に触れたければ貴方の方からここに来なければならないのよ、といけたかだかに命令する。誰が触れてなどやるものか、とピアノデュオも避けてきた。部屋に、教室に、あの漆黒の聖母か娼婦か知らないがそんなものがあるのが俺は、理由なく耐えられないのだ。自由を、身軽さを、どこへでも行ける解放感を、空と草原の間で掻き鳴らすヴァイオリンという楽器の音色を俺は愛した。そしておそらく永遠に、俺はそれと共に生き続けるだろう。けれども白藤倩爾というやつは、丸みのあるなだらかな曲線の、ひんやりとした黒い躯体を、指でなぞりながら俺は想像した。まるで囚われ人のように、ヤツは繋がれてピアノを奏でていたに違いない。囚われ人のように________俺は手のひらで初めは恐れつつ、死んだ従兄弟の、漆黒の艶光りするスタインウェイという名の棺をてのひらでゆっくりと撫でてから蓋をひらいた。

 

 白い鍵盤は華だ。闇に浮かぶ白い花を摘む。一音、鳴らすと闇に吸い込まれ音は消えた。消えた先を意味もなく眺めてそれから唐突に鍵盤を鳴らした。大学受験の必須項目の平均律だ。葬式じみた陰鬱で単調なバッハの平均律が俺の弾ける唯一のピアノ曲だった。それをコンセルに行った奴のピアノで弾くのも妙な気分がした。どうせ何もわかりはしないのに、音で繋がる試みをその時俺は無意識に試さずのはいられなかった。何処にも見えはしない精神と魂の幻を闇に消える音の向こう側に見つけ出そうと滑稽な試みを衝動的に、たとえばそれは降霊術の様な形式を伴っていたのかもしれない、を、かえりみもせず行った。。馬鹿馬鹿しい話だが、少なくとも何かしら得るものを期待したんだろう、死人の部屋の夜の闇に埋もれたピアノで。