2024-01-01から1ヶ月間の記事一覧

(改題) 007

見つけたらすぐに帰ると私に向かって言った男の眼は眼鏡の奥で灰色に閃った。叔父の友人なら二十七、八というところだろうか。 「書架はどこにある。」 知らないと答える間もなく彼は足早に廊下を進んでいく。 「私も、今日来たばかりで、何も知らないんです…

(改題) 006

夏目漱石の草枕に美女を評する文がある。そこには美しいという単語はひと言も含まれていないのだけれども主人公の男は彼女の魅力に一目見た瞬間に惹きつけられる。恥じらいと慄きにおそらく彼は女の姿を客観的に分析して文章にしてみせた。だから私もその手…

(改題) 005

英語のイディオムの発音にうんざりし始めた頃、勝手口の鍵が大きく音をたてた。参考書を閉じ立ち上がる。叔父か、彼の父か母、もしくは叔母か、家族の誰かがこの家のドアを開けようとしている。叔父はしばらく誰も使っていないからと言ったのに。誰だ。 不登…

(改題) 004

晴れた冬の日差しが磨りガラスを通して褪せた廊下や診療室を照らしている。空間に立ちのぼるホコリがまるで砂時計の砂のようにていて映った。なんてことはない。ただの虚な空き家だ。床の軋みを感じつつ、カバンを椅子に置き、ひとまず控えの居室に移動して…

(改題) 003

ここへ来るのは多分2度目だ。まだ祖父が生きていた時分に母に連れられたことがあった。病院は賑わっていた。診察を待つ人々で溢れ、働く人々は忙しそうにしていた。幼心にその光景は私に恐怖心を与えた。その感覚がまだ残っていたせいか時を経て変わり切った…

(改題) 002

鍵を使う日はすぐにやってきた。寒い冬の朝、吐く息の白い、アスファルトがうっすらと陽の光で耀く早朝、学校へ向かう道をそれて細い路上に入り、鉄柵の門の隙間からそっと敷地の中私は足を踏み入れた。犬走りを通って診療所の裏門へと向かう。鍵は制服のポ…

(改題) 001

私がこの家の鍵を受け取ったのは今年の正月の夕食時だった。その鍵は特徴のないステンレス製のどこにでもある鍵だった。それを手のひらにのせて、自由に使っていいよといったのは、母方の叔父だった。叔父といってもそれほど歳は離れてはいない。17歳の当時…