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「私これから貴方のことをファーレンハイトと呼ぶことにする。」花瓶から白いカラーの花を一本抜いて私は彼の胸ポケットに差した。「ストイックな貴方によく似合う花。私の叔母の部屋にヘンリー・エドワード・ソロモンの絵が飾ってあるらしいの。一緒に見に…

X 023

絶対0度の男に相応しくエドワード・ソロモンの名を聞いても彼は微動だにしなかった。一昨年の株価の暴落時にも静かに落ちついて数字の変化を眺めていたのだろう。あのショックで自ら命をたった有名人を私は新聞で見幾人もみつけた。「私の知るかぎりにおいて…

X 022

「エアコンをつけましょうか?」返事を聞く聴く前に私はテーブルに置かれたリモコンを手に取って勢いよくボタンを押した。「貴方って本当に不思議な方よね。世間で噂されてる貴方の渾名を教えてあげましょうか。絶対0度の男。私とは生涯縁のない良いニックネ…

X 021

南西の角、2階の楡の木の向こうに湖畔の見える部屋、以前は亡くなった祖母の、その前は祖父の姉の、その前は曽祖父の使った部屋が私の自室だった。重い扉を開ける。ぎしりと音を立ててウォルナットの両扉が僅かに開いた。差し込む光が眩しかった。しかめ面で…

X 020

枕の脇に置いたスマホが鳴った。見るとタキからの連絡だった。私の自室は整理されて今すぐにでもベットに潜り込める状態になったらしい。母親がわりのタキは私のことをよく知っている。目の覚める時間も、寝起きにチョコレートを食べないと身体の動かないこ…

X 019

屋根裏部屋の小窓から差し込んだ陽が薄暗い部屋を照らしていた。陽の差し込む光がまるで一条の線のように私の手首を裂いていた。しばらくそれを見つめながら自分が今どこにいるのか記憶を辿る。 タキの部屋は狭くて暗い。すでに階下へ食事の支度へと向かった…

X 018

男性と聞いてタキは訝しがった。ヘンリー・エドワード・ソロモンの滞在している事をタキはまだ知らないのだ。「なぜ彼がここにいるのか私にはわからない。タイミングが悪かったわ。しばらくタキの部屋で過ごしたい。ここで着替えて昼間は庭を散策したい。小…

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トランクを片手に夜道を歩きながら母屋へ向かった。木々は鬱蒼と繁り昼間の夏の熱気がまだ残っていた。母屋の私の部屋は一時の夏を過ごすには広すぎる、ソファに横になって手の届く範囲に日用品のある手狭さと便利さに学生の私は慣れてしまっていてた。車止…

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外は月明かりが煌々と照り、歩くには問題なさそうだった。母屋までは目と鼻の距離だ。自分の家の庭に怖いこともない。時計の針は10時を指していた。「では遠慮なく使わせてもらうよ。私の方が1日ここへ来るのが早かった。母屋に私の自室は残念ながら無い。ど…

X 015

「ソロモンと言えばサスティナ諸島での原地開拓が有名だが私個人ではナイトの称号も持っている。絵を描いて授与された。特に欲しくは無かったんだが。君の父君の屋敷にも私の絵がある。」「父の部屋に?」「いや、違う。」「アートルーム?」「さあ。」私は…

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私は徐に立ち上がると窓までゆっくりと歩きながら数字を数えた。前頭葉を使って怒りを抑えるためだ。そして少しでも身体の近くに父を感じたかった。平和で穏やかな眼差しと、私の名を呼ぶときの静かで落ち着いた声を思い出すために。「H・E・S ヘンリー・エ…

X 013

父を侮辱し始めた男に、私は容赦しなかった。「で、貴方は誰なわけ? 夜遅くひとの家に入り込んで、名前も名乗らずに、随分と育ちのよろしいことで。」育ちのよろしいこと、と繰り返すと首をかしげてさも面白そうに笑った。「次は私が君の素性を当ててみせよ…

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「でも、ナディーヌは、美人だと私は思うわ。」私の見た限り彼女は美しい人の部類に入るし、なおかつ目の前の男の髪色や瞳の色と同等の輝きを持っているのだから、親族の可能性はなきにしもあらずだと半分やけになって口走ったけれども、セリフの後半部分で…

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「レディ・ラトランド嬢のご子息かしら」そう答えるのが精一杯だった。父の部屋のベランダからはもう灯りは見えなかった。私の知る限り父の友人達の間で最も美しく知的な女性はウィステリア・ナディーヌ・ラトランド嬢だ。絹のような黄金の髪を結い上げて格…

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相手は私の考えなど手に取るようにわかるといった風情で、口元に微笑を浮かべ私が言葉を発するのを面白そうに待っていた。そのしたり顔が癪にさわった。私はなけなしの情報をかき集めて答えを出すことを試みる。。父の交友関係について。ポロのスポーツの仲…

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金の巻毛にライトブルーの瞳、白い肌。典型的な高位爵の持ち主の特徴を備えてる。両目は少し離れ頬に一点のアクセントのようなホクロ、薄い唇は挑発的な微笑を湛えている。歳の頃は30を越えたばかりだろうか。父との年齢差は10ほど。ビジネスマンというより…

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そんなことは知らない。と不躾な彼の手を払い除けると私はソファに腰掛けた。スプリングが勢いよく跳ねた。 「ハロルドの好みとはかけ離れた女性だな、ヴァイオラ嬢は。彼はもっととびぬけた美人が好きなんだ。」 確かに、父の隣にいる女性は際立って美しい…

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私の父はハロルド・ダービー。伯爵の称号を戴きこの国の西に300エーカーを超える敷地を保持し他に両替商や貿易業で成した財を為替や株でさらに増やしている。実際数を大きくしているのは父ではないけれども、ダービーの名を冠して何かしらの社会的な活動を行…

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「誰?」「君こそ誰なんだ。」 わずかなあかりに照らされた部屋の隅から声が響いた。「人を呼ぶわよ。」 ちょっと待ってくれ、両手をあげてゆっくりとした足取りで現れたのは、ひとりの男だった。パーティからたった今帰ってきた風の、シャンパングラスを片…

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その日の夕暮れの時刻、いつしか窓も開け放したまま、夢も見ずに深い眠りに落ちていた私は、コトリという小さな軋みのような音で目が覚めた。風は凪いて白いカーテンも黄昏に染まり、わずかにゆらめいている。その静けさの中で、コトリという音で目が覚め、…

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それについて文句をいう権利は私には無い。出来の良く無い子供が何かしら迷惑をかけて生活しているのだから呼ばれれば飛んでいくのが筋だろう。父のお気に入りの服を着て、髪を整え、帽子を被り、数日分の衣装と本を携えて父の元へ向かうのが、義務というも…

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思えばここも悪くはない場所だ。学校へもいかずマンションの一室で引き篭もった生活を送っていた私に何故父が帰ってきなさいと手紙を出したのか。その時、ちょうどカーレースのゲームにはまりかけていた時だった。同級生の誰かが見るに見かねて連絡したのか…

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離れに入ると湿った香りがした。何年も使われていない家具を覆う白布を力任せに剥ぎ取る。色褪せたソファや書棚が剥き出しになる。と同時に再び閉じた時が流れ出す。窓を開けると夏の前の青葉の香りが部屋に満ちた。外を覗けば緑繁る樹々の向こうに父の住む…

X 001

父親が帰れっていうからしおらしい顔をして帰ってみると相変わらずいつもの通りベッドに横になって驚いた表情で迎えられた。煙草の煙が部屋中に満ちていて窓から差し込む光がベッドの上のシルクが艶めいていた。彼はさもなんでここにいるのか不可思議で仕方…