(改題) 006

夏目漱石草枕に美女を評する文がある。そこには美しいという単語はひと言も含まれていないのだけれども主人公の男は彼女の魅力に一目見た瞬間に惹きつけられる。恥じらいと慄きにおそらく彼は女の姿を客観的に分析して文章にしてみせた。だから私もその手段に沿って彼の容姿を記してみようと思う。手にしたペンを置いてその指が五線譜の音符を辿るが如く彼の相貌の眦や口元の線の旋律を奏でるのも一興かもしれない。砂浜に寄せる波の如き音楽的感情は美しいという形容詞ひとつでは表現しきれないものだ、等立ち上がって身構えたときに死ぬ前の走馬灯のようなものが心を掠めた。一瞬の揺らぎを立て直しつつ私は彼を追う。
「待って。あなたは誰ですか?」
「天野の代理。」
ということはこの、例えば音楽に例えればラヴェルのチガーヌのような鋭く斬って裂くような雰囲気の取り憑くしまのない男は私の叔父の知り合いということだ。
「聖さんの代理?」
そうだ。と答えるなりくるりと向きを変え私に人差し指をつきつける。
「奴に探し物を頼まれた。本だ。奴の祖父の日記がこの家の書架にあるから取ってきて欲しいと頼まれた。いつも奴の希望を聞いているわけじゃない。昨日賭けに負けたから仕方なくここにいる。見つけたらすぐに帰る。」