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ダイニングテーブルに料理をならべて腰を掛ける。夏に蓼科などに来るものじゃなかったと窓の外をみながらエアコンの温度を22度、彼の好む温度に設定した。なにしろ暑い。庭の楓の木が夏の日差しを受けたまま動かない。グラスに水と氷と冷蔵庫に入っていたシロップのようなものを入れてかき混ぜながら頬杖をつく。おそらくあと5分ほどしたら2階から彼が降りてくる。一週間前にたしか胸ポケットにマークのついた絹のシャツと白いスエットを履いて。あの服はうっとりするほどに肌触りがよく演奏会用の上着を見繕ったついでに購入したのだ。身につけたときの滑らかさに頬を染めて気分がいいと微笑んだときの顔から私は目が離せなかった。いつもとは違う、ネクタイやらボウタイやらオニキスのカフスや三つ揃えのスーツや革靴やイニシャル入のハンカチやそんな諸々を購入するときの表情とは違う、可愛らしく頬を染めて気に入ったぬいぐるみを差し出す子供のような顔。だから、恥ずかしい話だけれどもその表情を観たいがために、私はもう一着同じものを購入したいと店員に伝えた。彼の頬の色がいっそう濃くなるのを見逃さなかった。たしかに肌触りは良いがなぜこんなものを欲しがるのかその時、問いただせばよかったと後悔したのは彼が常に己の感情を過去に置き去りにしてし私に何も話さないせいだ。私は脱ぎ捨てた衣装をひとつづつ拾いあつめて詳細を確かめる母親のように彼の感じたはずの感情と感性を追った。正しいか否かの答え合わせは過去一度も成されたことはない。彫刻のように整った顔の双眸を伏せて、右側--------それはいつも右側だった----------首を小さく傾けて美しい音楽に耳を傾けるような仕草で、「覚えていない」とつぶやくのが常だからだ。その答えは私に肩をすくめさせる。

 素足のまま階段を降りてくる足音が聞こえた。よく知った彼の左右の親指の形を思い浮かべる。冬でさえ彼は素足を好んだ。足を包むスエットの紐は結ばれていない。なぜあんな衣装を好むのだろう、もっと色の濃い絹のほうが白い肌を輝かせるのに。シャツのボタンはきっと上から3番目だけを留めている。ボタンを留めるのは私の役目だ。彼が不器用でなく、なんでも自分でこなしたがったとしても外すのと同じ手順で留めるのは今の私の特権だ。彼へ投資した時間と金と手間を上回る何かが現れない限り権利を譲るつもりは毛頭なかったし思いつく限りのカードを切る準備もできていた。あの白魚の指先が意思を持って開くことを拒んだ時をのぞいて。