EX:[004]

4

不吉な予言を払拭するかのごとく階下へ降りてきた彼の肢体は神々しかった。ブラックアイアンの手すりをなでる手はしなやかに椅子の背もたれを掴み絹のシャツから香る花は私の吟味した香水の匂いだった。洗面台に置かれた左から5番目の、色は淡いブルーのものだ。単に一番手に取りやすい場所においてあるから付けたのだろう。あれが一番減りが早い。髪を梳かしていないのは一目瞭然だった。前に髪を切りに行ったのはひと月前だったからもう予約をとらなくてはならない。東京へ戻る前に予約を取る必要がある。好みの長さ、好みの色、ホテルの一角に場所を据えた老舗でしか私は彼に髪を切らせなかった。私のスマートフォンには彼のスケジュールが分刻みで埋められている。我ながら正気を失っていると思うが二人のエージェントとマネージャーから当日および半年先までの決定事項、変更が入るように手配していた。彼の未来のために。その日届いたデータを仕事の合間に確認し修正を加え手配する。十年後の理想像を現実にするためにーーーーー一度、私は彼に問いたことがあったけれども、あの時も確かこの蓼科の別荘の広間でシベリウスを弾いていた彼はトゥルテの弓を静かに下ろし、迷子になった子供のように私を振り返った。その評定を今でも思い浮かべることができる。それきり、私は彼に質問することをやめた。ビジョンが無いのなら作ればいいのだ。優秀なアーティスティック・マネージャーを雇い入れ、彼のキャリア戦略を練った。その時の私はあの時の彼と同じように途方に暮れた表情をしていたように思う。彼にとってのより良い人生、家庭と仕事を持ち多くの人々が望む幸福な人生を歩むための道筋をつけるーーーーーー布石を打つごとに乾いた笑いが浮かんだ。ーーーーーー幸福な家庭ーーーーーーー果たして彼に幸福な家庭など必要なのだろうか、未来への道筋を付けるたびに霧に包まれたイメージを色濃く鮮やかにうつしだそうと試みる。妻、子供、家、健やかな日々、家庭的な日常。演奏旅行の合間ピチカートのように差し込まれるアクセント、オーケストラとの共演、ソロ、デュオ、四重奏ーーーーーー「ありえない」ーーーーーー思わず出た言葉にマネージャーが訝しげに私を見つめたのを覚えている。