藤棚 007

4 離れ


 確かに俺と玲は従兄妹どうしだ。 倩爾だってそうだ。だが子供の頃に遊んだ記憶がない。互いの家が遠いせいもある。母親が実家に頻繁に出向いていなかったためだろうか。それでも従兄弟同士なのだからどこかで会ったことはあるはずだ。葬式や結婚式やそんな一族同士の催しで。集合写真だって残っているはずなのに、俺にはそれを見た記憶がまったくなかった。 奇妙な話だ。お手伝いの-------ミヨさんと彼女は言うらしい------から冷やしタオルを受け取り、首筋を冷やしながら俺は外へ出た。月の綺麗な晩だった。池に映る月が水面に影を落としていた。さすがに藤棚にあの姉妹の姿はなかった。雨が暑さを沈めて、わずかに吹く風が心地よかった。
 
 母方の家族の記憶がないのはなぜなんだ?俺は広大な庭の飛び石を歩きながら記憶をたどった。正月も年末も夏休みもこの家に来た記憶はあるが二人とも姿を見ることはなかった。 倩爾は海外留学中でいなかったんだろうけど、それでも年末年始ぐらいは帰省しないほいがおかしいだろう。玲だって、俺が正月に出向いたのは幼い頃、数回だったが、すれ違いだったんだろうか。写真だって---------ああ俺は送られてくる一族の写真など一度も見たことはなかった。興味がなかったのだ。(家に帰ればみつけられるかもしれないな。)母親の箪笥の引き出しに入っているに違いない。
 広い敷地を茫漠と歩みつつ藤棚の脇を通り灌木の茂みをかきわけ、母屋の北側へまわるとそこにはこじんまりとした平屋が軒を連ねていた。いくつかの部屋のなかのひとつに灯りがともり、そこはおそらく玲の部屋なんだろうと俺は検討をつけあえて遠回りをして、手前の、他の離れより大きな家に近づいて、ドアノブに手をかける。なぜなら廊下の窓のカーテンの隙間から、ピアノが見えたからだ。 倩爾ってやつの部屋だろう。おそらく練習用の。


 ドアノブをゆっくりと手前に引くと難なく開いた。闇に浮かぶ室に目を凝らす。二間続きの、広い、妙な配置の部屋だった。玄関を入ってすぐにソファがあって、中央に浮かび上がる白いベッド、その向こうにフルサイズのグランドピアノ。手探りで壁をつたって、電灯をつけると煌々とした灯りの下で全貌が明らかになる。


 人を呼ぶ前提の無い部屋。中央に鎮座するベッドっておかしいだろう。食事はソファの前のテーブルで食べていたのだろうか。食卓ってのが無い。ベッドで眠って、洗面室で顔を洗って、ユニットバスで風呂に入り、ひとり用の冷蔵庫で水を飲んでお手伝いのミヨさんが持ってくる飯を食って、服を着替えて、一日中ピアノを弾いていたのだろうか。弾き暮らして、また飯を食って、風呂に入って寝る練習するには最高の場所だなと俺はその整えられた、もうすでにこの世にはいない人間の部屋を見回して倩爾ってやつの生活を想像した。作り付けの棚には音源や映像ディスクが詰め込まれている。みるからに年代物のレコードやレア物のディスクの積まれた宝の山だ。ピアノにはさほど詳しくないのに今じゃもう手に入らない貴重なアイテムだ。俺は静かに歩みを進め漆黒のピアノへと身体をむけた。