藤棚 004


 25mのプールほどの大きさのある池を大きく迂回して雨風の中やっと縁側へたどり着いたとき、女が、白い靴下を履いた女が立っていた。白い靴下が目に入ったのはただ目線がそこにあったに過ぎない。だから玲という俺の第一印象は学校指定の白い靴下になった。彼女は俺が来るのを待ち伏せていたようにガラスの引き戸を開けて待っていた。そしてバスタオルを投げつけ(拭いたら)と言い放った。ぶっきらぼうな語り口調に似合わず、彼女は子供っぽい顔立ちをしていた。中学生のようにみえた。実際は高校も3年だったのだが。(どうも)と受け取った俺を馬鹿にしたように鼻で笑って縁側の先の部屋に消えた。急いでケースを拭きそれから適当に身体を拭くと結構な水を含んだバスタオルになった。これは傘を持ってあの奇妙な姉妹を迎えに行かなければならないと俺は玲の消えた先へ急いで向かった。長い廊下の突き当りの部屋に入ると、応接間が広がった。和室ばかりの屋敷の唯一の洋室と言って良いのかもしれない。そこのソファで女は座って、体育座りをしてスマホを見つめていた。随分とこじんまりとした女だなと思った。(傘を貸してもらえないか?)と俺は云った。藤棚の姉妹を迎えにいかなければならないのだ。女は黙ったままだった。もう一度俺は云った。雨は止みそうになく風も横殴りで戻るに戻れないんじゃないかという理由も付け加えた。するとちらりとこちらを見て(無駄だから)と云った。何が無駄なんだ?(傘があっても戻る気ないから)あの姉妹が?(そう。)なんで?(頭がおかしいから。)頭がおかしい、たしかにそう見える。そう見えるが会話は普通に成り立っていた。大したことは話してないが。頭がおかしいという理由で外に放おってもおけないが本人たちが戻る気が無いなら仕方がない。俺は傘を持って行くのをやめた。そして女にバスタオルの礼を言って部屋へ、白藤倩爾という従兄の部屋へ戻ろうとしたとき呼び止められた。(ちょっと。)俺は振り向く。(いけしゃあしゃあといつまでここにいるわけ?)俺は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔になったと思う。古臭い例えだが要するに馬鹿面になった。いけしゃあしゃあといつまでここにいるわけ?と俺は彼女の言った言葉を繰り返し声にした。二度繰り返した。(--------そうよ。呼んでもないのに迷惑この上ない。せっかくの休日に。図々しく上がりこんで兄貴の部屋で寝泊まりしていつ帰るの?)早く帰ってよ、とまでは言われなかったが要するにそういうことなのだろう。好きでいるわけじゃない。と俺は答えた。誰が死人の部屋で寝たいと思うか?俺もさっさと帰りたいが親の希望でここにいるに過ぎない。迷惑なら明日にでも帰る。となるべく抑揚を抑えて云った。女は黙ったままだった。ババアの姉妹が頭がおかしいならお前も同じくらい頭がいかれてると俺は内心罵って部屋を出た。この分だとあの玲って女の両親もきっと気が狂ってるに違いない。葬式のとき会った気がするがどんな奴等だったか覚えてない。俺を従兄の部屋に案内したのは偶然居合わせたお手伝いさんって人だった。この家に常駐してるのかその日だけ居合わせたのか知らないがいまどきそんなものがいるってのは随分金持ちなんだろう、俺は親の実家についてはほとんど知らなかった。特に母親の家については何も語られずに長いこと放っておかれたままだった。俺の祖父母が早い時期に亡くなったせいだろう。世代が変わり母のいるべき場所では無くなっていたせいもある。自殺した従兄と妙な叔母どもとクソ生意気な従姉妹のいる家になど一刻も早く離れたい、と俺は二階にあがると急いで荷物の整理を始めた。
 ノートや参考書や着替えなどひとまとめにバッグへ放り込んでいると、扉外から恐ろしげな足音を立てて誰かが上ってきた、ああ、あの女だなと俺は察しを付けて待ち構えた。予想どおり玲はノックもせずにドアを勢いよく扉を開けると早く帰んなさいよ、と俺に向けて怒鳴った。俺は無言で荷物を詰めている最中のバッグをこれみよがしに指差した。準備している最中なんで邪魔をしないでもらえないか、と先ほど奴が鼻で笑ったように俺は玲を嘲笑った。苦虫を潰したような女の顔を見て気分が良くなった俺は小気味よく荷物を整理し続けた。言葉にならない罵声を俺に浴びせかけると玲は来たときと同じようにドアを激しく閉めて足音を鳴らし出ていった。
 整理し終えたカバンを閉じ、雨音を聞きながらベッドに腰掛ける。白藤倩爾という従兄が死んだのは家族のせいなんじゃないのか?この家に来て俺の受けた仕打ちはどうだ?一日でこのありさまじゃ、二十数年も生き続けたら死にたくもなる気もしないでもない。俺は苛立ちを彼の家族にぶつけた。父母はしらないがもうどうでもいい。顔も合わせず明日の朝には出ていくのだ。とんだ休日の始まりだった。