藤棚 011

「お前の兄貴のピアノを勝手に触って悪かったな。」
 俺は思ってもないことを言った。とりあえず謝っておけばうるさい声を聞かなくて済むと思ったからだ。
「兄さんが弾いているように見えた。馬鹿みたい。天と地ほどにも違うのに。あんたが兄さんのわけないのに。」
「顔が似てるからだろ。黙ってれば似てなくもないのかもな。とりあえず布か何かで指紋を拭いておく。それでいいだろ。他のものは触ってねえよ。お前の兄さんが生きてた頃のままだよ。お前ハンカチかなんか持ってねえの。それで拭いときゃ元通りだよ。」
別にいい。
 小声で下を向いて女は呟いた。怪訝な表情を浮かべつつ俺は静かに立ち上がった。殴られる前触れの怪しい予兆を感じたからだ。けれども女は俺を殴るでもなく突っかかるでもなく一歩近づき鍵盤に指を置いた。さっと俺は後ずさる。
平均律クラヴィーア。」
「…ああ、今弾いてた曲ね。それしか弾けないんだよね俺。ピアノ苦手でさ。お前の兄貴はもっと上手く弾いたんだろうけど。」
「まあね。」
さも自分が弾くが如くの答えに俺は吹き出した。
「なによ。あんたの登山靴で岩を蹴るような汚い音なんか聴くに耐えない酷い代物じゃないの。兄さんの音はもっと柔らかくて優しいの。花びらが水面に落ちるような、真珠が転がるような、例えるのが難しいけれど、そんな音。」
 お前の言いたいことはわかるよ、と俺は酷く納得して答えた。天賦の才能ってやつだ。
「与えられた指は皆同じなのに、弾く楽器だってかわりゃしないのに、なんだってあんなに弾く人間で音は変わるんだろうな。指の角度や鍵盤に触れる圧力を考慮したって天才の一音ってのは一瞬で心を虜にする。人の技量を超えてる。だから特別なんだろう。凡人は腐った音しか出せないけど、神に選ばれし奴はピアノの枠を超えた音色を出す。不思議なもんだよな。」
 玲は俺の台詞を鼻で笑うと鍵盤に置いた指を動かした。
「私の音はどう聴こえる?」