藤棚 010

離れ 7

 

 盛大な嫌がらせから、些細なものまで曇天のもとに荒ぶる波の如く俺の人生に押し寄せては繰り返し退いてまた打ち寄せる。そのたびごに心は頑なになり穿つ荒波に痛み何かを失っていった。繊細さや素直さや満ち足りた幸福感のようなものだ。長らく感じ得ない故にどんなものかも忘れてしまった。時にコンクールで優勝したなど栄光を受ける際、満足ってものを感じる時もあったけれども継続的な充足感を得るには何かが足りなかった。その何かを追い求めることを俺はしなかった。人生はそんなものだと自嘲して笑った。実績を積めばいい。結果は後からついてくる。俺が、俺のための、俺のために与えられるべき、ストラディバリウスを手にしたとき、苦痛は胡散し背負いこんだ苦しみは報われるはずだ。俺はそれを希望と呼んだ。希望は常に俺の目の届く場所にあった。
 
 伝家の宝刀を背に隠して邁進する。常にトップであり続けるために。誰も信用しない。マエストロでさえ俺の才能を捻じ曲げる、些細な指導も恭しく礼を尽くして彼らの指導ってのを俺は認めなかった。信じるのは自分だけだった。その分孤独だったけれども、他に望むものは無かった。だから、と俺は闇に浮かぶ白い鍵盤を見つめながら遠い異国で死んだ従兄に想いを馳せる。死について。案外俺みたいな奴の身近にも死は寄り添っているのかもしれない。
 
 そのときだった。ドアが静かな軋みを立てて開いたのは。前から気づいていたが俺は黙ってた。玲って女がこの部屋の扉の向こうにいることを。声をかけるにしても言うべきことなどなかったし、文句があるなら勢い込んでくってかかってくるのがあの女のスタイルだ、それを受け流せば済む。
 けれども玲は一言も発せずにソファの傍を通りベッドの側を過ぎ俺の近くまで神妙に歩いてきた。酷く眠そうな、疲れた顔をしていた。年齢は俺と変わらないはずだ。なのに夜のせいか大人びた表情が顔に張り付いていていた。