藤棚 014

そこまでいうと玲はソファーに座った。はじめに会ったときのように、両足をソファーに載せて、それを抱えるようにして続けた。
「こんな、幻想即興曲まで弾けるようになったのも、兄さんのおかげ。家を出て、たまに帰ってくる間、兄さんの応えが聴きたくて、ただひたすら練習してた。ピアノの向こうの、蓋の影から、ちょっと笑った感じの、はにかんだ笑顔がね、好きだった。どう?このアレンジって、私に問いかける感じ。兄さんは生粋のクラシック派だったけど、きっとジャズも上手かったと思う。ある年なんて、ウィーンフィルニューイヤーコンサートの全曲の冒頭を、ミックスして、弾きこなして、私、あまりに素敵で、なんだかわからないけれど、もうやめてって、素敵すぎるからって、兄さんに抱きついて、留めたことがあった。可笑しいでしょ。兄さんはただ、笑ってただけだったけど。
 兄さんが家を空けるたびに、私、ピアノが上手くなっていった。レパートリーが増えて、少しだけ、兄さんの音に近づいた。この、幻想即興曲も、延々と、アレンジを、繰り返して、お互い、ラストに、笑い転げて、楽しかったねって、言うはずだった。ずっと、夢見てた。あの日の、朝食、ミヨさんの作ってくれた肉じゃがの玉ねぎを、ちょうど口に入れるとき。電話が鳴って、割烹着のスカートで手を拭きながら、ミヨさんが急いで受話器を取って、兄さんが亡くなったって、手のひらで口を押さえて、何度も確認してて、私それを身体の右端で感じながら、心が、少しづつ、凍っていくのが、わかった。TVのロケみたいだって、馬鹿みたいなことを思いながら、でも、頭のすみで、ああ、って何かが、沸騰しながら凍っていく、凍って砕けて、何かの間違いだって、また再生して、それでも崩れて、粉々になっていく。あの日のことは、記憶が曖昧で、思い出そうとしても、心が、苦しくなる。私、あの日から数日間、何をしていたのか、覚えてないの。気がついたら、両親は、兄さんの元へ、海外に飛んで、私は、自分の部屋で、ベッドに腰掛けて、窓の外を見てた。ちゃんとって言い方、変だけど、夕方に、父さんから電話があって、兄さんが死んだ、って、言葉をきいて、ようやく、遠い海の向こうの話が、私のもとに、やまびこみたいに、返ってきたの。でもそれは、鋭いナイフの形をして、いまだに、私の胸に、突き刺さったまま、ここにある。」