X 024

「私これから貴方のことをファーレンハイトと呼ぶことにする。」
花瓶から白いカラーの花を一本抜いて私は彼の胸ポケットに差した。
「ストイックな貴方によく似合う花。私の叔母の部屋にヘンリー・エドワード・ソロモンの絵が飾ってあるらしいの。一緒に見にきて。彼どんな絵を描いたのかしら。」
「君はこの部屋を出る前に小鳥の巣のような髪をなんとかした方がいい。ダービー卿は一日憂鬱な気持ちで過ごさねばならなくなるだろう。」
「いいのよ。私どうせ不肖の娘だし。たまには父を絶望の淵に追いやったっていいんじゃないかしら。昨日も私の見知らぬ女性と一夜同じ夢を見たのよ。」
私の言葉を聞いたシャオ・ホウはわずかに微笑を浮かべた。
「恋人に贈る絵ってどんなものかしら。ちょっとロマンチックよね。」
 彼の手をとって私は足早に私の叔母、父の妹のアイリーン・ダービーの部屋に向かった。

X 023

絶対0度の男に相応しくエドワード・ソロモンの名を聞いても彼は微動だにしなかった。一昨年の株価の暴落時にも静かに落ちついて数字の変化を眺めていたのだろう。あのショックで自ら命をたった有名人を私は新聞で見幾人もみつけた。
「私の知るかぎりにおいてヘンリー・エドワード・ソロモンのいくつかの興味深い出来事のひとつに、君の叔母と彼が長いこと恋人同士だったという事実がある。」
 柔らかな寝床に入り込んでいた私は動物のように飛び起きた。
「恋人同士?彼と私の叔母が?待って。彼は今いくつなの?」
「私と同期。パブリックスクールを共に卒業した。総代として壇上で謝辞を奏した姿が記憶に残っているね。内容は覚えていない。」
「シャオ・ホウ、貴方、確か今年で三十になったのよね。」
「誕生記念のパーティーの招待状を君は受け取らなかった。」
「ごめんなさい。でもアンジェラが来るのを知っていたら招待を受けたと思うわ。彼女に会えるのは数年ぶりだったろうから。」
「アンジェラも君に逢えずに残念がっていたよ。」

X 022

「エアコンをつけましょうか?」
返事を聞く聴く前に私はテーブルに置かれたリモコンを手に取って勢いよくボタンを押した。
「貴方って本当に不思議な方よね。世間で噂されてる貴方の渾名を教えてあげましょうか。絶対0度の男。私とは生涯縁のない良いニックネーム。一度くらいそんなふうに言われてみたいと思うわ。」
乱れた髪のままベッドの中に潜りながら私は言った。片手に持ったグラスはミネラルウォーターだ。彼はディナーでさえアルコールを口にしない。身体に悪い影響を与えるものを寄せ付けないようにしている。食事でも人物でも物事でも。
エドワード・ソロモンが来てるの。家に。離れで会って、彼はそこに滞在してる。昨日から。詳しくは知らないけど、貴方は彼をどう評する?」

X 021

南西の角、2階の楡の木の向こうに湖畔の見える部屋、以前は亡くなった祖母の、その前は祖父の姉の、その前は曽祖父の使った部屋が私の自室だった。重い扉を開ける。ぎしりと音を立ててウォルナットの両扉が僅かに開いた。差し込む光が眩しかった。しかめ面で真っ向から真夏の陽を浴びる。
「遅いね。」
光を遮る様にベランダに誰かが立っていた。見知った姿だった。
「君が来てると聞いて待ってた。」
シャオ・ホウ、だった。父の知り合い。知り合いと言ってもずっと若い。私との方が歳が近い。この男性はいつ見てもどこで会っても一部の隙も無い。炎天下の海でパナマ帽を被りパラソルの下でグラスを片手に蜃気楼を眺めていた時でさえ微動だにしなかった。その時だらしなくジュースを飲んで寝転がっていた私は今のように不貞腐れた顔をしていたかもしれない。
 一糸乱れぬ漆黒髪が濡れ羽のようだった。30度を超える気温の中で立っていられるのが不思議なほどなのに。

X 020

枕の脇に置いたスマホが鳴った。見るとタキからの連絡だった。私の自室は整理されて今すぐにでもベットに潜り込める状態になったらしい。母親がわりのタキは私のことをよく知っている。目の覚める時間も、寝起きにチョコレートを食べないと身体の動かないことも。寝巻きのまま乱れた髪でトランクはそのままに私は自室へ向かった。幼い頃遊んだ暗い廊下を裸足で歩きながら。途中使用人が驚いて何かしら声をかけたけど応えるのも面倒で何も言わずにやり過ごした。朝は気分が優れないのだ。陽の高く上るまでもう一度眠る必要があった。マンションへ戻るか一夏をここで過ごすか、昼食後に決めよう。

X 019

屋根裏部屋の小窓から差し込んだ陽が薄暗い部屋を照らしていた。陽の差し込む光がまるで一条の線のように私の手首を裂いていた。しばらくそれを見つめながら自分が今どこにいるのか記憶を辿る。
 タキの部屋は狭くて暗い。すでに階下へ食事の支度へと向かったのだろう。私は疲れた体を無理やり起こして頭痛のする頭を抱え込んだ。
 そして乾いた笑を浮かべた。わざわざ戻ってくる必要もない自宅へ真夜中に苦労して足を運び、離れへ荷物を運び入れてみれば見知らぬ男にすでにそこは占領され久しぶりにタキに会えたのは嬉しい出来事だったけれどもおおよそ踏んだり蹴ったりの意味のない一日だった。まあ私のいつもの日常と変わりない非生産的なくだらない日々と大差ないのだけれど。

X 018

男性と聞いてタキは訝しがった。ヘンリー・エドワード・ソロモンの滞在している事をタキはまだ知らないのだ。
「なぜ彼がここにいるのか私にはわからない。タイミングが悪かったわ。しばらくタキの部屋で過ごしたい。ここで着替えて昼間は庭を散策したい。小鳥の巣箱や笹舟の流れる様子を見て榎木の下で本を読んで好き勝手に散策して夕暮れ時に感傷に浸って夜に鈴虫の鳴く音を聴きながら流れ星を数えたいの。子供の頃そうしたように。」
 おやまあと笑いながらタキは私の眠るためのベットを整えてくれた。そして明日になったら私の部屋を整えてそこで過ごすべきだと言った。適当に相槌を打ちつつ服を着替え疲れた身体を横たえる。目を閉じるとヘンリー・エドワード・ソロモンの金の巻き毛が脳裏に浮かんだ。黄金色の髪、その隙間から覗く青い双眸。整った面に洗練された動作。厭世家ぶった失礼な言葉。可能な限り西側の離れには近づかないように、この夏の間もう2度と彼に遭わずに済むように、上手く立ち回らねばならない。なぜなら、と私は声に出して言った。
「なぜなら」
彼のような人間が私を好むはずがないからだ。今年は最悪の夏になる予感がした。