X 017

トランクを片手に夜道を歩きながら母屋へ向かった。木々は鬱蒼と繁り昼間の夏の熱気がまだ残っていた。母屋の私の部屋は一時の夏を過ごすには広すぎる、ソファに横になって手の届く範囲に日用品のある手狭さと便利さに学生の私は慣れてしまっていてた。車止めのある正面玄関を避けて裏口へと回る。地下の食糧庫から屋根裏部屋に上がる階段を登って突き当たりの部屋のドアをノックした。私の隠れ部屋。数少ない安心できる場所。嫌なことが有れば一目散にかけ込んで癒される場所。乳母のタキのいる部屋に今晩は泊めてもらうことに決めた。
「部屋に帰りたくないの。」
お久しぶりでございますね、と一人暮らしを始める時にお別れをした姿と何も変わらずタキは私を迎えてくれた。
「突然どうなさったのですか。タキは驚いて口から心臓が飛び出るかと思いましたよ。」
「離れで寝たかったの。でも知らない男性がいて、自室に行こうと思ったのだけど、嫌になって、ここに来たの。」

X 016

外は月明かりが煌々と照り、歩くには問題なさそうだった。母屋までは目と鼻の距離だ。自分の家の庭に怖いこともない。時計の針は10時を指していた。
「では遠慮なく使わせてもらうよ。私の方が1日ここへ来るのが早かった。母屋に私の自室は残念ながら無い。どこへも行くあてがない。譲ってもらったお礼を言おう。そして、私の絵はおそらく君の父君の妹の部屋に飾ってある。見たければみればいい。」
そういうと投げ捨てるようにテーブルへネクタイを放り投げた。
「では失礼。もう寝ることにする。夜道に気をつけて。おやすみ。」

X 015

「ソロモンと言えばサスティナ諸島での原地開拓が有名だが私個人ではナイトの称号も持っている。絵を描いて授与された。特に欲しくは無かったんだが。君の父君の屋敷にも私の絵がある。」
「父の部屋に?」
「いや、違う。」
「アートルーム?」
「さあ。」
私は目を丸くして彼を見た。黄金の巻毛に覗く二つの瞳は特に何かを語ってはいなかった。その絵を見たいと願ったけれども言葉にするのは憚られた。これ以上目の前にいけ高々と腰掛けて高慢な態度を見せる男性と近づきたくなかった。
「私、部屋に戻るわ。」
持ち運んだ荷物をトランクにまとめるために私は立ち上がった。
「部屋?母屋の自室?」
「そう。貴方が先客なら仕方ない。私ここにいることはできないもの。自分の部屋は好きじゃないけど、貴方と2人で離れに暮らすわけにもいかないでしょう。荷物も少ないし、長居する予定もないし、どうぞご自由に使って。貴方が何故ここに暮らすのか知らないけど、父が許したのなら、私は何も言えないわ。それじゃ。」

X 014

私は徐に立ち上がると窓までゆっくりと歩きながら数字を数えた。前頭葉を使って怒りを抑えるためだ。そして少しでも身体の近くに父を感じたかった。平和で穏やかな眼差しと、私の名を呼ぶときの静かで落ち着いた声を思い出すために。
「H・E・S   ヘンリー・エドワード・ソロモン。」3番街の亭主に刻印して貰ったと袖口のボタンを見せて私に言った。「あそこの主人の彫は癖が強いんだ。けれども私はそれが返って気に入ってる。人に名前を知られるのは好まない。詮索されるのはそれ以上に不快なのだが。」
 南洋に浮かぶオリーブ畑の広がる島について習った時の彼のファミリーネーム、ソロモン家について学んだことを私は思い出していた。プラント育成で原住民への貢献と共に名誉と財を成した新興の、と言っても第一次世界大戦を終えた時代に名を国中に知らしめた一族だ。熱帯雨林の異国の地に世界の果てまで続いているような屋敷が教科書に載っていた。

 

X 013

父を侮辱し始めた男に、私は容赦しなかった。
「で、貴方は誰なわけ? 夜遅くひとの家に入り込んで、名前も名乗らずに、随分と育ちのよろしいことで。」
育ちのよろしいこと、と繰り返すと首をかしげてさも面白そうに笑った。
「次は私が君の素性を当ててみせよう。素性と言ってもハロルドの娘なのだから大方検討はつく。歳は、そうだな、二十というところか。学生でおそらくセントローズかフォルタシオン舎か、ああイデアか。あそこは爪の色が決まっているのは当然、ミリ単位で管理しているんだったな。しかし君はどれだけ学校を休んでるんだ。その爪といい髪の色といいおよそ三ヶ月は不登校なんだろう。プロトコルや外国語を学ぶのはつまらないか。かといって積極的に己の道を邁進するタイプでもなさそうだ。しっかり父親の嗜好に沿って身なりを整えるあたりは健気で真面目な性格なんだろうが細やかさがない。胸元に浮かぶシミは油脂性だね。君はその格好で料理をするのか。エプロンもつけずに。スカートの裾のほつれもハロルドは許さない。許さないのに放置しているのはそれを知らない馬鹿かだらしがないのかのいずれかかまた両方だ。箸にも棒にもかからない、大して美人でもない娘をフィニッシングスクールへ突っ込んで多少なりとも形を整えようとしたハロルドの気持ちもわからないではないな。人生を謳歌できないでいる娘を憐れに想うがゆえの良心か、倫理感に基づいて彼なりに己の人生の創作物に折り合いをつけようとしているのは大した物だ。彼にしてみれば、失礼な物言いだが全くお眼鏡に敵わない骨董品をやむを得ず保持してるようなものだからな。君は社交界へもうデビューはしたのだろう。壁の花の苦痛も味わったわけだ。壁に張り付いて不細工な男女の品評会でもツイートしてたかな。まあそちらの方が長い裾を引き摺ってボールルームをぐるぐる回るより面白いかもしれない。」

X 012

「でも、ナディーヌは、美人だと私は思うわ。」
私の見た限り彼女は美しい人の部類に入るし、なおかつ目の前の男の髪色や瞳の色と同等の輝きを持っているのだから、親族の可能性はなきにしもあらずだと半分やけになって口走ったけれども、セリフの後半部分ですでに私は後悔を感じていた。
「ナディーヌ・ラトランド嬢の形状は美しさを表現しているかもしれない。首筋から細い肩を覆った絹の朝焼けのような色合いは印象的だった。去年の誰のパーティーか思い出せもしない一席で。記憶に残ったのはそれだけ。あのブルーの瞳もシャンパングラスを掲げてみればどこにでもある茶色なのを君は知っている?彼女は酔っていてさえ、面白いことをひとつも言えはしないつまらない女だ。そしてその日の食事は非常に美味かった。」
「私は、べつに、美しければそれで十分だとおもうけれど。」
しどろもどろに、そして彼の辛辣なナディーヌへの評価に多少腹をたてつつ言い返した。
「さすがに君はあれだ。ハロルド・ダービーの娘なのだな。女は美しければ良い。美術品と同じだ。」

X011

「レディ・ラトランド嬢のご子息かしら」
そう答えるのが精一杯だった。父の部屋のベランダからはもう灯りは見えなかった。私の知る限り父の友人達の間で最も美しく知的な女性はウィステリア・ナディーヌ・ラトランド嬢だ。絹のような黄金の髪を結い上げて格子窓から差し込む光を背後に受けた姿は天使のようだった。開いたドアから通りすがりに一目見た姿は暫くの間脳裏に刻まれ忘れることもできず、滅多に尋ねることなどない朝食の友人について父に尋ねずにはいられなかったことを覚えている。父は収集した絵画を褒められた時のように素直に目を輝かせて私に彼女の名を教えてくれた。そして彼の大きな、この世界の富と幸運の全てを得て生まれてきた神聖な両手で私の頬を挟むと、君も、彼女のようになれるかな、エリス。僕はそれを君に望んでもいいのかな。
「私があのラトランド伯の息子だって」
不快感をあらわにして彼は言った。スーツの袖口をあやまって汚したときのようにその先をつまんで原因を探るように見入っている。薄い唇のは嘲弄が浮かんでいた。私はラトランド伯本人も知らないし、息子の存在さえいるかいないか定かでないところを当てずっぽうに言っただけだったので、「彼」が表現した不愉快な態度の原因など検討もつかない。