読書「回想のブライズヘッド」

 イギリスの作家イーヴリン・ウォーが「回想のブライズヘッド」を書いたのは1945年、第二次世界大戦終結した年、物語は過去に訪れたブライズヘッド邸に主人公が大隊を駐軍させるシーンからはじまる。題名の「回想」とは「ふたたび」の意であり、広大な土地と豪邸を前に、オックスフォード時代の青春を思い出す。

 主人公ライダーは大学で侯爵家の次男セバスチャンと知り合い放埒な日々を過ごす。ひと夏のブライズヘッド邸での経験は彼の人生の行路を決めるきっかけとなり、絵描きとして成功を掴んだ彼は邸宅で描いた風景の継続、滅びゆく美しい英国建築物だった。

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 主人公が初めて訪れたときには、すでに堅固で壮麗なブライズヘッド邸へに崩壊の影が忍び寄っていた。家長のマーチメイン侯爵は愛人とイタリアに逃亡し存在しないも同然である。長男は家を継ぐよりかは司祭となり、宗教に身を投じることを希望しつつもその夢は絶たれている。次男セバスチャンはアルコールの多量摂取に陥り、長女ジューリア、次女コーデリアは未だその影に覆われずにいるものの未来にさす暗雲を感じ取っている。

 その影の正体が何であるのか、膨大な借金や戦時下という時代にも原因はあるだろうがおそらくは彼らの妻であり母親であるマーチメイン夫人の影響が多々あるのではないだろうか。彼女はイギリスでは少数派であるカトリックを信奉している。幼い子供達にカトリックの宗教観を語り成長過程に深く影響を及ぼしている。各自のセリフにそれは見て取れる。マーチメイン侯がブライズヘッド邸に居住しないのもセバスチャンが酒に溺れるのも母親の宗教への情熱ためであって宗教を通してのみの愛情表現でしか家族と接し得ない不幸から生じているのではないだろうか。彼女の差し出す愛は神というフィルターを通してのみ個人へ与えられ、受け取る側もカトリックの教義に深く水没するように浸かっていなくては得ることのできないものではないのか。

 セバスチャンは飲酒を繰り返し己を傷つけ異国の修道院にて死を迎えることとなる。次女は若いながらも修道生活を望み、後に従軍看護師となって戦地に趣く。長女ジューリアは宗教観の違いのために主人公が不可知論者だという理由で婚約を破棄するのだ。死に際に侯爵が嫌悪していたカトリックを臨終間際で終油の儀を通し受け入れる。それを見たライダーはキリストが磔刑で命を引き取ったときにイスラエルの祭壇の幕が引き裂かれたように己の何かが変わったことを知る。そしてジューリアの婚約破棄の言葉も静かに受け入れるのだ。

 時は経過し、彼は軍人としてブライズヘッドと回合する。敷地内にて初めて足を踏み入れたそこはかつてマーチメイン侯が夫人との結婚を祝し、彼女のために建築した礼拝堂であった。そこで彼は覚えたての、かつてはるか遠い昔から唱えられてきた祈りを捧げた。

 なぜ不可知論者であったライダーがクリスチャンになったのか、物語の最終の山場を繰り返し読み通しても理解し得なかった。生まれた国や教育や宗教観の違いから、信仰に至る心情を汲み取れないことはもどかしく満たされない思いが残った。この小説の第一章の副題には「われもまたアルカディアにありき」とある。「われ」とは死を指し「アルカディア」は理想郷を指す。意味は理想郷にさえ死は存在するという意味だ。墓碑銘にも使われる。若き日のライダーはブライズヘッドという理想郷で美を見つけ宗教でもって崩れ落ちる経過を眺め、それを身のうちに留め祈ることを識った。