001(仮)

 この家の鍵を受け取ったのは今年の正月の夕食時だった。その鍵はなんの変哲もないステンレスでできた、どこにでもあるような鍵だった。それを私の手のひらにのせて、自由に使っていいよといったのは母方の叔父だ。ひと回りほど年上の、海外で仕事をしている叔父とはそれほど親しく話をしたことはなかったけれども、秘密を共有するかのごとく手渡されたそれを私はポケットにしまった。ひっそりと、だれにも見つからないように。17歳で自由に使える家の鍵は、特別な品物であり、家族に見つかったらすぐさま取り上げられるにちがいなかった。
 叔父にはたしか、授業に出ても居場所がない、そんなことをポツリとつたえたような気がする。授業なんてただ、座っていればいいだけだけれど、自習室へ移動してもひどく落ち着かないとかそんなたわいのない話をした気がする。
 すると彼は私に、この鍵をくれた。これは私達に共通する祖父の、数年前に亡くなった祖父の廃病院の鍵だった。それは私の通う高校の近くにあった。
 北側の道路から敷地内の細い犬走りを入って陽のあたる庭に出ると勝手口がある。南側にみすぼらしい勝手口があるなんて奇妙な造りの家なのだけれど、もともとが病院というか診療所なのだから仕方がない。軋む扉を開けて中に入る。ひんやりとした空気が身体を包む。入ってすぐの左側キッチンにカバンを置く。何もかもが静けさに満ちている。時の停止した空間に無理やり入り込んだような、妙な圧迫感が私を不安にする。勝手口の鍵を内側からしっかりと閉じる。音のない冬の光が部屋に満ちている。
 叔父がこの家を相続したのは前述の祖父が亡くなった時だ。兄姉の誰も欲しがらない家をなし崩し的に貰い受けて再び人の住める場所に変え、住心地の良い空間に変えたのは私の高校へ入学する頃だったのだろうか。ガラスの薬瓶はただしく正面を向き、診療机の前の書物は美しく整えられていた。引き出しの中はほぼ空にされ、色褪せた壁にかつてはられていたであろう紙も全て剥ぎ取られていた。待合室のソファに被せられた白い布はここがすでに死んだ場所であることを示している。すりガラスのむこうに見える木々だけがときに揺れて差し込む光の変化を床に映し出すのだ。
 カバンから英語の参考書取り出すと、私は鉛筆とノートに単語を書き写していった。次の授業で当てられる箇所の復習を再度繰り返した。ほかの箇所はすべて飛ばした。大学受験にはまだ1年以上あったし、他の授業の宿題も終わらせなければならなかった。私は従兄弟の中では一番出来の悪い子供だった。幼少の頃から比べられて様々な事柄にうんざりしていたし、今更がんばって見返してやろうという気も起きなかった。親戚の中の爪弾きにあっているそんな私を叔父は哀れんでこの隠れ家の鍵をくれたのかもしれない。
 私がこの家に魅了されているひとつに、祖父の休憩室があった。そこにはベッドと書棚とレコードとそのレコードを聴くためのプレイヤーがきっちりと隙間なく配置されていて生前の生真面目な祖父の性格を彷彿とさせる部屋だった。勉強の手間を休めてはときおりそこで書籍やレコードを眺め、ベッドで休んではその背表紙をぼんやりと眺めていたりしていたが、その中の一冊に目を留めたのは祖父の収集した書籍とは少し趣が異なったものだったからだと思う。薄いピンク色をした、ノートというには厚みがあり、文庫本よりも大きなサイズのそれを手に取った瞬間を、私は今でも思い出すことができる。残念なことにもうそれは手元にはないのだけれども、私の眼の前を通り過ぎていった平凡な時間とは真逆の不可思議な出来事に無理矢理巻き込まれていく羽目になったその冊子について、今にして思うと、私はあえて叔父があの場所へ置いた気がしてならないのだ。