小説(仮)嵯峨山恭爾 001

 弦に触れてはじめの音を出すのに躊躇するのに似ている。気分が乗らなければその時は大抵、最後までいい音は出せない。文章も同じだ。日頃書くことに慣れていない自分が文字を綴ってみるなんて余程の出来事があったと思ってくれ。いつか誰か、彼女以外にこの記録を読むんだろう。それとも目にしないだろうか?まあいずれにしても仕方なしに書く。書けと言われたので書く。
 
 まずはアルペジオから始める。指慣らしってやつだ。先にも気分が乗らないっていった通り、何から描き始めたらいいのかわからない。小説家ってのはなんだってああつらつら文字を並べて書き連ねるんだろうな。演奏家も同じか。ヴァイオリンで音を奏でるのに似ているのだろうか?どうでもいいか。指の躊躇う様子に似ている。上手い事先に進まない。本当ならばもう少し時が経過した後に書きたい。1週間分の譜読みが足りない気分だ。オレは結構譜読みが好きだったりする。以外だと言われるけど、譜読みだけで十分満足な時さえある。頭の中で音の鳴り響くのを満足して聴いている。長い時はひと月ほど楽譜を眺めているだけの期間もあった。そんなオレをおかしいと嗤った奴もいた。確かに変な奴だろうな。ああ、話が脇に逸れる。とにかく、つまりだ、オレは毎晩夢の中でひとりの女と出会ってる。まず一音。同じ女と出会って夢の中で話す事をこの半年ばかり続けている。ロ短調和音。どうでもいい下らない話を交わす。交わす、というよりかは、悩み相談会に近い。オレのどうでもいいクソ下らない半生を垂れ流して現状の苦境を語る。すると女は結構為になるアドヴァイスを吐く。オレはそれに聞き入る。たまにへぇ等返事をする。と同じ要領で女はどうでもいい恋愛話をオレに振る。で、オレはそれに応える。そんなやりとりを一晩、ここ毎晩半年以上続けている。譜読みで頭がおかしいとオレを嘲笑った奴は、そのセリフが事実だと確信する事だろう。伏せておきたい現実を文字にするってのはきついな。真実オレは頭か心がどうにかなってしまったのかもしれない。
 
 この奇妙な出来事の発端は、思い返せば実家に帰省した日から始まる。あの日は曇天だった。今にも雨が降りそうで、傘をとりに部屋まで戻ったのを覚えている。取りに戻った傘を車の後部座席に放り投げると、東京から田舎の実家まで高速を走った。十年振りの帰省だった。高校からの寮生活以来、正月にさえ顔を出したことがない実家へそもそも何故行く気になったのか。それは今の現状と関係している。一生、帰る気などなかった。記憶の片隅に残る記憶など押し殺してしまうつもりだった。それを彷彿とさせる事象も受け入れないつもりだった。だがオレは実家へ戻らなければならない理由が、不愉快な出来事と再度対峙しなければならない理由ができた。それは実家に置いてきた一台のピアノのせいだった。
 
 プロのヴァイオリニストとして生計を立てることを決めて以来、オレは悩み続けていた。経歴に過不足なものは何も無かった。新聞やネットでコンクールの度に名前は誌面を飾った。インタビューも受けた。TVにも演奏姿が映った。プロフィールは写真も含めて満点だ。それを見れば誰だって一度は聴きたいと願う演奏家になった。あるコンクールで優勝した折のプロフを見て自分自身に悦に入った。付け加えるべきものはひとつもなかった。完全な経歴から完璧な軌道を描く人生。二十歳そこそこで上手くやったと我ながら思う。人生は朝焼けの色に染められていた。七年後、人生に行き詰まり、避け続けた実家へ戻らざるを得なくなるなど、当時は考えも及ばなかった。
 
 さて、ここまで書き記してオレは眠りにつくことにする。寝ると言っても、夢の中で女のくだらない恋愛話を聞くことになるのだが。