小説(仮)嵯峨山恭爾 002

 オレは大抵の男がそうであるように恋愛について語る事を好まない。人に誇れるような出来事が無いのも正直なところだ。なんだろうな、これもあまりに書きたくはないけれども、そのうち吐かなきゃ先には進めないのだろうな。先に進んだところで人生が好転するとも思えないが、停滞してるよりは良いのだろう。
 
 目を閉じる。夜の闇の深さに身を委ねる。鳥と虫の音色に耳を傾ける。二人は語り合う時は常にベッドの中に横たわっている。俺の名を呼ぶ彼女の声に目を覚ます。たまに名を間違える事をおかしくもまた悲しくも思う。君はいつになったら本当の俺の名を心に留めるのだろう。名前など記号にすぎぬと達観できるほど執着は捨ててはいない。
 
「嵯峨山、久我山」どちらだった?
ほら、こんな風に曖昧な記憶と認識で彼女の世界は出来上がっている。俺の名字さえ覚えちゃいない。
「どっちでもいいよ。好きな方で呼べよ」
「そう。じゃ、今日は久我山さん」
久我山恭爾。それが今日の俺の名前だ。奇妙ではあるが恭爾という名は彼女は忘れない。覚え易いのだろうか。
「今日は久我山さんの好きそうな曲について考えてた。好きそう、というか久我山さんっぽい、久我山さんらしい音?線の太い、男性っぽい音」
「随分適当なんだな」
「適当かな。適当の定義を私はしらない。久我山さんが適当って思えばそうなんだろうけれど。」
 
 理屈っぽい女だと話し始めた頃にはうんざりしたが、慣れたものでこちらも文字どおり適当に言ってることの半分を素通りさせている。彼女の言うことに意味はなく、ただ、単に耳を傾けてほしいだけなのだ。
 
久我山さんの音を、聴いてみたいけれど、ここではヴァイオリンはないし、想像するほかないじゃない?で、結構な時間をさいたんだけれども。」
 
 まずひとつ、俺達の夢の中は、表現される物質が少ない。表現される、という表現が正しいのかは謎だ。俺も半年ほどの彼女との会話で随分屁理屈をこねるような語り口になった。
 今俺達の存在する部屋は白い、色彩のない空間だ。場所や時代の推測可能なものも無い。光源もなく窓もドアも見つからない。それを除けば病室の一室に近い。
 彼女は俺の音に似ていると(勝手に)想像しているヴァイオリニストの名を数人挙げた。どれも知っている、しかも繰り返しディスクで聞き流した演奏家だった。弦の擦れる音や休符の間の加減に動画での首の角度から上半身のひねり具合まで覚え込んだヴィルトーゾばかりだ。
 
 おそらく、彼女の存在する世界と俺の世界はつながってる。述べる作曲家や演奏家、作家に映画に食い物、その他諸々の諸事について俺の知らない単語は彼女の口にのぼることはなかったのがそのワケだ。ここで「同じ世界」と断言できないのは、彼女の瞳の色が、俺の世界では存在しない色、金色のせいで、同じ地球の地平線上で生きる生物ではない、と、まぁ認識して結論づけた。
 簡潔に言って俺は地球外生命体と夢の中で話している、重力で引き合ってる12だが13次元の無限宇宙世界のひとつと。奇妙な話だ。所詮夢の話なんで一番確率の高そうな事実を設定付けた。適当だ。だが適当でも誰も困らないだろ。
 
「似てるんじゃない?」
似ている?
「うん。私のとても気に入っている大好きなヴァイオリニストの話、その逸話について繰り返し」
 
 音を奏でるのはちょっと恥ずかしい、と彼女が言うものだからその滑稽な返答に俺は思わず吹き出しそうになるのだった。こういった噛み合わないやりとりも夢ならではだが彼女が満足していればそれなりに自分は幸せなのではある。重奏低音のように、例えば表で管楽器の嵐のような騒音が巻き起こっていた時でさえ、変わらないのは不可思議な話だ。
  いつから俺は彼女の幸せを願うようになったのだろう。両手でこめかみを押さえ記憶を遡るが思い出せない。単に夢の中って理由ではっきりしないのか、夢の出来事だから曖昧な記憶しか残っていないのか、不意に襲った不安に戸惑う。結構大事な事なんじゃないか?しかめ面をした俺を彼女は見ていた。こんな時、何考えてるの とか 頭が痛いの とか相手の気持ちを慮るんだろう普通は。
 
「彼のことをよく考えてるの」
「あ”あ”?」
 
 彼というのは彼女の想い人のことだ。こいつ人の気も知らないでムカつくな。やっぱり幸せを願うのは無しだ。
「考えたかったら考えればいいじゃねえか」
 考えたところでどうにかなるものでもないがな。不安に駆られた俺は早めに話を切り上げて己の思考に没頭したかった。