小説(5)嵯峨山恭爾 005

 十年振りに帰った実家はほぼ変化が無かった。お袋のエプロンの色も髪型も労う声も、学校から帰宅した中学生の頃と何ら変わりがなかった。ただ、犬が増えてたんだよな。小型犬がゾロゾロお袋の足元に纏わりついていた。店で見て可愛いと思うとつい買ってしまうと言った。寂しいんだなと俺は思ったよ。親父は単身赴任で兄貴は結婚したままオレと同じく出たっきりだからな。田舎の広い家で独りっきりはふとした瞬間に病むんだろう。そんなとき犬がいると多少は気が紛れるのかも知れない。さすがの俺も罪悪感を多少は感じつつ、でもなす術がない、あんなど田舎でヴァイオリン弾きの仕事なんかねえだろうが。それに何より、一瞬だってあの家に居たくはなかったんだ。オレは仕事を素早く片付けて翌日には自宅へ戻りたかった。だから荷物もろくに持たずに雨の中車をふっ飛ばして来た。
 その間ずっとハイフェッツを聴いていた。ハイフェッツは何を弾いてもハイフェッツにしか聴こえないのがいい。あの弓捌きはオレの心臓をヤスリで削ぐ、血が滲み服に染み付いてしたたり落ちるまで延々と削ぎ続ける。多分、楽器はグァルネリだろうな。ストラドを試して、でも音が合ったのはグァルネリだったんだろうな、ハイフェッツの超絶技巧を超えた神業が曲を押し潰してさえ音楽であり続けるのを聴くのは最高に気分が良い。そしてオレの心の臓は少しづつ引き裂かれて麻痺していく。けれどそうでもしなければ、家に着くこともできず、この部屋にも入ることもおそらくはできなかっただろう。
 
 まずはお茶を飲んで休め、と制止する母親を椅子に座らせ、オレは東の奥の一角の部屋へと向かった。そこはかつて祖父の書斎でありまたヴァイオリンの練習部屋でもあった。やたら広い部屋の、これまた大きな机で祖父は休日によく調べ物をしていた。仕事か趣味なのか幼少期の自分にはわからなかった、尋ねるのを憚る雰囲気があった。祖父でありながらも近寄りがたい爺だった。楽器を弾いているとふと目の合う瞬間があった。すると爺は顎を上に上げてオレに無言で命令するのだ、もっと弾き続けろ、と。まだ従順で素直で愛想の良い優等生だった自分は指示通り弾き続けた。プロになるにはどのみち日の沈むまで、飯を食って眠りにつく瞬間まで、バカのように弾かなきゃならないのを俺は知っていた。
毎日、毎日、振り返ってみれば気の遠くなる時間を演奏に費やしていた。年端もいかない子供がプロになりたいと願ったのは、この部屋のある物が原因だった。オレはそれを見ていなかったらヴァイオリニストになりたいとは願わなかったと思う。普通の幸せな子供時代を過ごして楽しい思い出ってやつの二、三個を経験して大人になっただろう。だから、この部屋は、オレの人生の道筋を決めた最初の場所でもあるとも言える。
 
(当時とはだいぶ様相が変わったけどな)
 
 先に書いたとおりかつては広々と、オレのヴァイオリンを弾く立ち位置と、祖父の机は10人掛けの巨大なダイニングテーブルが置けるぐらい距離と空間があった。なおかつ窓を背にして奴は立ってオレを見返していたのだから陽を背にした真っ黒な顔しかもう思い出せない。それは幼少のまだ心の定まらない、人とも呼べぬ生き物には心理的な恐怖を植え付けるには十分だったろう。当時から祖父は恐れの対象だった。それでも、オレにはこの部屋で練習すべき理由があった。なぜならこの部屋にはストラディヴァリウスがあったからだ。