小説(仮)嵯峨山恭爾 009

 
「おい!」
(ああ?)
無意識に繰り返し、吉野の前で頭を打ち続けてたのだろう、彼は気違いじみたオレの行動に恐れ慄きながらも
「何か食べた方がいい」
と未だかつて見たこともない豪華な桐箱に入った弁当を取り出した。それを食べ終えたら風呂に入った方がいい とも言った。もう何日も風呂に入っていなかった。
(本当にどうしたらいいんだ?こんなことは初めてなんだ)昔から吉野は食通だった。聞いたことのない高価そうな料理を前にオレは繰り返し(どうすればいいんだろうな)と途方に暮れた。何から手をつけりゃいいんだ?けれどもいつまでもそうしている訳にはいかないんでとりあえず食って風呂に入った。隣室からマーラーのアダージェットが聴こえた。それはいままでに耳にしたことのないような甘い演奏だった。マーラーらしく突如、はにかむ少女が頬を膨らませてそっぽを向いてしまうような、錯綜した愛らしさがあった。繰り返しその部分をリピートしてオレは脳に記憶させた。ひとり風呂から上がるとPCの前に腰掛けていた吉野は振り向いてコンサートに行けと言った。
 
 知人から貰ったチケットをやるから、オレが外へ出て演奏を聴きに行けと言うのだった。吉野はすでにピアニストとして名をはせていた。知人とは仕事の相手先で、手にしているチケットはプレミアがついていた。これを聴いてどうしろというのだろうな。弦楽器奏者がピアノを聴いて得るものがあるのだろうか。出向きたくない場所へでかけて頭がおかしくなったら責任をとってもらえるのだろうか?
(行きたくない。)数年ぶりに来日するヴィルトーゾを聴く機会を断った。
(え?いいのか?)こんなチャンス滅多にないぞ。
繰り返し言うが彼はオレの置かれた状況を正確には理解していなかったと思う。薄暗い照明のなかの音の反響、残響、遠鳴り、今一番見たくも聴きたくもないホールに足を運ぶ意味が無い。
(どうして?)
(特には。)
珍獣でも見るように彼はオレを見た。それはそうだ。プレミアチケットのプラチナ席なんて簡単には手に入らない。普通なら何も考えずに行くだろう。不可解な話に首をかしげたくもなるだろうな。
(興味がないなら無理にとは言わないけど。)そうだ。これ以上オレに無理強いをするのはやめてほしい。
 
 1か0か、有るか無いか、白か黒か、極端すぎる考え方だと人は指摘する。だがそれがオレなんだよ。ロマンチックな言葉を吐いて上手いこと人を乗せるやつもいる。(信じてる)オレはその言葉を目にするたび口がへの字に曲がる。何を信じるんだ?信じてるものを列挙してそのワケを教えてくれよ。試す奴はそれ以上に吐き気がする。「これはお前のために買ったものだ」「決して誰にも触れさせはしない」「あのコンクールで優勝したら弾かせてやろう」あの爺はオレにそう言い続け騙し、オレの人生を潰しやがった。人をコントロールするってのはさぞ気分がいいもんだろうな。