小説(仮)嵯峨山恭爾 010

 吉野の帰った後、オレはぼんやりと窓の外を眺めた。夏の夕暮れ時の空は橙色に染まっていた。ここに住めるのもあとどのくらいだろう、銀行の残高はそろそろ底をつくはずだ。いくつかの定期を解約して、それでも数年、その後はもっと家賃の安い場所へ引っ越して、演奏とは無縁の仕事に就いて死んでいくのか。それも悪くないなとオレは考えた。
 数日後には業者がこの部屋を片付けに来る。そのついでに今まで手にしたヴァイオリン関連のものも破棄して身軽になってまた旅にでもでるか。今度はあてのない気軽な旅だ。金がなくなったら適当な仕事を見つけて着の身着のまま遊牧民のように定住先もなく、好き勝手に暮らしそこで死ぬ。
 そう考えるとだいぶ気が楽になった。吉野の付けたPCの前に座り、早速旅の行き先を決める。マウスを動かすと真っ暗な画面から一台のピアノが浮かび上がった。あいつオレのことを心配してるフリをしながらピアノの画面見てやがったのか。まあ人間そんなもんだよな。
業者を手配したのも彼だがしかし全ての反応が早すぎやしないか。もっとこう情緒的な、感傷的な間を感じる時間があってもいいんじゃないか?速さが勝負を決めるとも限らない。奇妙すぎる。その奇妙さが苛立ちを加速させる。吉野とオレはピアノとヴァイオリンで昔セッションをしたことがある。演奏の技能と反応力と知識の試される協奏だ。それはクラシックというよりかはジャズに似ていた。はたから見れば面白い一芸だろう。確かに演奏してるほうも爽快感がある。だが今は、反応の速さは不誠実さを意味する、そしてまれにーーーーーー
 つらつらと考え事をしながらオレは吉野の閲覧していたピアノ業者のウェブをながめた、そして翌日は業者のもとを訪れ、1週間後には全ての定期預金を解約後、俺はなぜか、グランドピアノを購入した。
 
 オレは未だにこの謎が解けない。買ったのはベーゼンドルファーの「コンサートグランド290インペリアル」だ。なぜスタインウェイを選ばなかったのか、それは単にベーゼンドルファーのほうがわずかに「大きい」という理由にすぎない。広い面積と重量を要する、それがなによりベーゼンドルファーを選択した理由だ。
 
 価格は田舎で新築戸建てを余裕で買える程度だった。生活の不安と見通しの立たない将来になにより必要な金を大方なげうって購入した。しかもオレはピアノを弾かない。家族でも弾けるやつはいない。もちろん吉野もオレがベーゼンドルファーを買ったことなど知りはしない。
「奥行き3m 間口1.7m 高さ:1m 重量:552kg」ショールームベーゼンドルファーフラグシップモデル、漆黒の怪物じみたピアノを目にした瞬間、ある情景が浮かび、振り向きざまオレはマネージャーに値段を訊いていた。一週間後には決済を済ませ、そして実家の祖父の部屋にそれを置いた。
 
 祖父の部屋で組み立てた、という表現のほうが正しい。この楽器はコンサートホールで使用するために作られたもので一般家庭で和やかに音楽を楽しむものでも練習に励むために作られたものでもない。巨大なホールの先の壁にさえ音が響き跳ね返ってくるよう特別に作成されたアイテムだ。部屋の中心点を計り、楽器の定位置を決めた。オレが希望したのはただひとつ、その楽器を奥へ、祖父の定位置だった窓際まで押し込んでくれ、ということだけだった。結果あれほど広々とした空間を持った部屋はコンサートグランド290インペリアルで肉を食いすぎた動物のようにはちきれんばかりになった。これでもう二度とこの部屋に来ないで済むのだとその部屋の有様をみてオレはほっとした。