小説(仮)嵯峨山恭爾 012

 
 巨大なグランドピアノを購入する数日前の話だ。吉野の手配した清掃業者が部屋へ来た。無機物のゴミに紛れて、オレにとっては大事な物も、かなり貴重な品も含まれていたが、放り出して床に投げ捨てたそれ等が、そろそろ玄関口までとどきそうな勢いで部屋を侵食しはじめていた。生活は全てヴァイオリンの為に、分刻みでコントロール出来ていたかつての自分には思いもよらぬ有り様だった。(大したことありませんよ。これなら1日も有れば全て片付けます。)その言葉を聞いて居場所もなく途方に暮れていたオレはほっとした。ひとつづつ、床に散らばったものを広いあげ、彼らはオレに問いただしていった。いるのか、いらないのか。静かにオレは首を横に振り続けた。書籍、ディスク、楽譜、手書きのノート、記念の写真、コンクールの盾、いつ買ったのかも覚えていないゴミから丁寧に保管され続けた記念品も、一緒にまとめて捨てた。取捨選択には集中力と意思力が必要だ。そんな気力は病んだ心の中には残されていなかった。最後の頃は首を振り続けるのも億劫になっていたと思う。残りは一括りまとめて破棄してくれと言っていた。手際良く、躊躇も無く、業者は全てを運び去った。部屋には数冊の本と、数着の服と、生活に必要な最低限のものだけが残された。(まだだ。)夏の夕暮れ時の、なにもない書棚と、テーブルと椅子の落とす長い影をぼんやりとながめながら(まだ足りない。)白い壁をみつめ(まだ満たされない。)全てを捨て去って満たされないのは当然だ。だが違う。オレの求めていたものはこれじゃない。それから数日後、ベーゼンドルファーを買って祖父の部屋にオレはそれを打ち込んだ。
 
 その後2度目の入院を経験した。1度目は実家でストラドの消えた後に荒れた時、次は何もない自宅で飲まず食わずの数日後、床に倒れてたのを親が見つけて担ぎ込まれた時。目を覚ますと、栄養剤の点滴が右腕に刺さっているのが見えた。それを見てクソがと思った。弓を握る右腕には一度だって針を刺したことは無い。でもすぐに笑いが込み上げて、実際声に出して笑った。喉に張り付く乾いた笑いだった。もう関係ねえよ、針なんか好きなとこに好きなだけ挿せよ。
 
 人はオレの行為を自傷と呼ぶのだろうか?それとも自暴自棄か自虐的か。オレは病院の個室のベッドでぼんやり考えた。爺は、あのクソ爺はオレの扱い方を間違えやがったんだ。馬鹿が。さっさとストラディヴァリウスを弾かせりゃよかったんだよ。そしたらオレはもっと上に行けた。こんなしみったれた病院の個室で点滴を刺されるようなクソつまんねぇ運命にあわずに済んだんだ。(希望への第一歩か、地獄への転落か)このスタイルはオレを成長させはしない。(間違ってる。)じゃなかったらもっと明確な意思表示をすべきだったんだ、誰でも、誰でも自分の手法が合うと思ったら大間違いなんだよ。オレは起き上がると点滴の針を抜いて金具を蹴飛ばした。大きな音がしてなにかの壊れる様子があったが、構うものかとそのまま着替えて荷物を持って外へ出た。
 
 当時の自分に必要なのは時間だった。時の経過を沈黙して眺めること、それだけが癒やしと、正しいものを正しい場所へ導く手段だった。待つことで物事が変わってもそれは必須事項であり飲み干すべき毒と酒と薬の混合剤だ。自暴自棄と自虐と破壊行為。オレは爺のことになるとどうしようもなく腹が立つのだった。抑え込みつつ手放すのは技術がいる。弱りきった自分にそれができるか、ひとりきりで。医者に頼るほかないのか?八方塞がりだな。