2024-01-01から1年間の記事一覧

X 001

父親が帰れっていうからしおらしい顔をして帰ってみると相変わらずいつもの通りベッドに横になって驚いた表情で迎えられた。煙草の煙が部屋中に満ちていて窓から差し込む光がベッドの上のシルクが艶めいていた。彼はさもなんでここにいるのか不可思議で仕方…

藤棚 017

「ガムってなに?私と兄さんとの思い出が噛み散らかしたガムってってなに?」「例えばだよ。ガムじゃなくたって別に--------」「訂正して。今すぐ訂正して。訂正できないならもっと良い例えにして。本当にあんたって馬鹿よね。その顔がムカつく。腹ただしい…

藤棚 016

「あのさ、俺は家族の仲はまあいい方だと思うし孤立もしてないし、楽器で語り合う特別な兄弟も友達もいない。お前の喪失感っていうの?何だろうな、俺にはわからないけれども、あえて言わせて貰えば、仕方のないことだよな。お前に原因や責任があるわけじゃ…

藤棚 015

そういい終えると、指先を胸の中央を指して、俺を見て玲は微笑んた。茶色の瞳がビー玉のようだった。俺は額に手をやり、大きくため息をつき、それから彼女の傍に投げやりに腰を下ろすと、もう一度大きくため息をついた。「ひでえ人生だな。」 メンヘラ街道一…

藤棚 014

そこまでいうと玲はソファーに座った。はじめに会ったときのように、両足をソファーに載せて、それを抱えるようにして続けた。「こんな、幻想即興曲まで弾けるようになったのも、兄さんのおかげ。家を出て、たまに帰ってくる間、兄さんの応えが聴きたくて、…

藤棚 013

「私がピアノを習いはじめたのは、兄さんと会話したかったから。別にそれほどピアノが好きってわけじゃない。私の音、少し兄さんににてるの。ほんの少しだけ。兄さんと私、一緒にいる時間が短かったんだ。話しかける時なんてなくて。大抵兄さんは練習してた…

藤棚 012

子供みたいな指が器用に鍵盤上を舞った。こいつも一人前以上に弾きこなす技量を持ってるのかと驚きの眼差しで細い指先が鍵盤を叩くのを見た。音だって悪くない。女の弾いてるのはショパン。幻想即興曲。大した技量だ。兄妹揃って上手いもんだと感心した。「…

藤棚 011

「お前の兄貴のピアノを勝手に触って悪かったな。」 俺は思ってもないことを言った。とりあえず謝っておけばうるさい声を聞かなくて済むと思ったからだ。「兄さんが弾いているように見えた。馬鹿みたい。天と地ほどにも違うのに。あんたが兄さんのわけないの…

藤棚 010

離れ 7 盛大な嫌がらせから、些細なものまで曇天のもとに荒ぶる波の如く俺の人生に押し寄せては繰り返し退いてまた打ち寄せる。そのたびごに心は頑なになり穿つ荒波に痛み何かを失っていった。繊細さや素直さや満ち足りた幸福感のようなものだ。長らく感じ得…

藤棚 009

離れ 6 学校ってとこは個性を殺す。コンセルのような場所は別の意味で才能を潰す。世界でトップに立ちたければあらゆるところで一位を取る必要がある。ジュリアードでもバークレーでも何処でも、圧倒的な1番でい続けなければならない。そこでは妥協は決して…

藤棚 008

離れ 5 昔から俺はピアノという楽器が苦手だった。大きく、重く、そこに在り続ける動かし難い威圧感、圧迫感を、それは俺に与えた。ヴァイオリンは軽さと手頃な大きさゆえに何処へでも運んで行ける。願えば常にそばにあり続けることができるのにピアノときた…

藤棚 007

4 離れ 確かに俺と玲は従兄妹どうしだ。 倩爾だってそうだ。だが子供の頃に遊んだ記憶がない。互いの家が遠いせいもある。母親が実家に頻繁に出向いていなかったためだろうか。それでも従兄弟同士なのだからどこかで会ったことはあるはずだ。葬式や結婚式や…

(改題) 007

見つけたらすぐに帰ると私に向かって言った男の眼は眼鏡の奥で灰色に閃った。叔父の友人なら二十七、八というところだろうか。 「書架はどこにある。」 知らないと答える間もなく彼は足早に廊下を進んでいく。 「私も、今日来たばかりで、何も知らないんです…

(改題) 006

夏目漱石の草枕に美女を評する文がある。そこには美しいという単語はひと言も含まれていないのだけれども主人公の男は彼女の魅力に一目見た瞬間に惹きつけられる。恥じらいと慄きにおそらく彼は女の姿を客観的に分析して文章にしてみせた。だから私もその手…

(改題) 005

英語のイディオムの発音にうんざりし始めた頃、勝手口の鍵が大きく音をたてた。参考書を閉じ立ち上がる。叔父か、彼の父か母、もしくは叔母か、家族の誰かがこの家のドアを開けようとしている。叔父はしばらく誰も使っていないからと言ったのに。誰だ。 不登…

(改題) 004

晴れた冬の日差しが磨りガラスを通して褪せた廊下や診療室を照らしている。空間に立ちのぼるホコリがまるで砂時計の砂のようにていて映った。なんてことはない。ただの虚な空き家だ。床の軋みを感じつつ、カバンを椅子に置き、ひとまず控えの居室に移動して…

(改題) 003

ここへ来るのは多分2度目だ。まだ祖父が生きていた時分に母に連れられたことがあった。病院は賑わっていた。診察を待つ人々で溢れ、働く人々は忙しそうにしていた。幼心にその光景は私に恐怖心を与えた。その感覚がまだ残っていたせいか時を経て変わり切った…

(改題) 002

鍵を使う日はすぐにやってきた。寒い冬の朝、吐く息の白い、アスファルトがうっすらと陽の光で耀く早朝、学校へ向かう道をそれて細い路上に入り、鉄柵の門の隙間からそっと敷地の中私は足を踏み入れた。犬走りを通って診療所の裏門へと向かう。鍵は制服のポ…

(改題) 001

私がこの家の鍵を受け取ったのは今年の正月の夕食時だった。その鍵は特徴のないステンレス製のどこにでもある鍵だった。それを手のひらにのせて、自由に使っていいよといったのは、母方の叔父だった。叔父といってもそれほど歳は離れてはいない。17歳の当時…