長編小説

X 001

父親が帰れっていうからしおらしい顔をして帰ってみると相変わらずいつもの通りベッドに横になって驚いた表情で迎えられた。煙草の煙が部屋中に満ちていて窓から差し込む光がベッドの上のシルクが艶めいていた。彼はさもなんでここにいるのか不可思議で仕方…

藤棚 017

「ガムってなに?私と兄さんとの思い出が噛み散らかしたガムってってなに?」「例えばだよ。ガムじゃなくたって別に--------」「訂正して。今すぐ訂正して。訂正できないならもっと良い例えにして。本当にあんたって馬鹿よね。その顔がムカつく。腹ただしい…

藤棚 016

「あのさ、俺は家族の仲はまあいい方だと思うし孤立もしてないし、楽器で語り合う特別な兄弟も友達もいない。お前の喪失感っていうの?何だろうな、俺にはわからないけれども、あえて言わせて貰えば、仕方のないことだよな。お前に原因や責任があるわけじゃ…

藤棚 015

そういい終えると、指先を胸の中央を指して、俺を見て玲は微笑んた。茶色の瞳がビー玉のようだった。俺は額に手をやり、大きくため息をつき、それから彼女の傍に投げやりに腰を下ろすと、もう一度大きくため息をついた。「ひでえ人生だな。」 メンヘラ街道一…

藤棚 014

そこまでいうと玲はソファーに座った。はじめに会ったときのように、両足をソファーに載せて、それを抱えるようにして続けた。「こんな、幻想即興曲まで弾けるようになったのも、兄さんのおかげ。家を出て、たまに帰ってくる間、兄さんの応えが聴きたくて、…

藤棚 013

「私がピアノを習いはじめたのは、兄さんと会話したかったから。別にそれほどピアノが好きってわけじゃない。私の音、少し兄さんににてるの。ほんの少しだけ。兄さんと私、一緒にいる時間が短かったんだ。話しかける時なんてなくて。大抵兄さんは練習してた…

藤棚 012

子供みたいな指が器用に鍵盤上を舞った。こいつも一人前以上に弾きこなす技量を持ってるのかと驚きの眼差しで細い指先が鍵盤を叩くのを見た。音だって悪くない。女の弾いてるのはショパン。幻想即興曲。大した技量だ。兄妹揃って上手いもんだと感心した。「…

藤棚 011

「お前の兄貴のピアノを勝手に触って悪かったな。」 俺は思ってもないことを言った。とりあえず謝っておけばうるさい声を聞かなくて済むと思ったからだ。「兄さんが弾いているように見えた。馬鹿みたい。天と地ほどにも違うのに。あんたが兄さんのわけないの…

藤棚 010

離れ 7 盛大な嫌がらせから、些細なものまで曇天のもとに荒ぶる波の如く俺の人生に押し寄せては繰り返し退いてまた打ち寄せる。そのたびごに心は頑なになり穿つ荒波に痛み何かを失っていった。繊細さや素直さや満ち足りた幸福感のようなものだ。長らく感じ得…

藤棚 009

離れ 6 学校ってとこは個性を殺す。コンセルのような場所は別の意味で才能を潰す。世界でトップに立ちたければあらゆるところで一位を取る必要がある。ジュリアードでもバークレーでも何処でも、圧倒的な1番でい続けなければならない。そこでは妥協は決して…

藤棚 008

離れ 5 昔から俺はピアノという楽器が苦手だった。大きく、重く、そこに在り続ける動かし難い威圧感、圧迫感を、それは俺に与えた。ヴァイオリンは軽さと手頃な大きさゆえに何処へでも運んで行ける。願えば常にそばにあり続けることができるのにピアノときた…

藤棚 007

4 離れ 確かに俺と玲は従兄妹どうしだ。 倩爾だってそうだ。だが子供の頃に遊んだ記憶がない。互いの家が遠いせいもある。母親が実家に頻繁に出向いていなかったためだろうか。それでも従兄弟同士なのだからどこかで会ったことはあるはずだ。葬式や結婚式や…

(改題) 007

見つけたらすぐに帰ると私に向かって言った男の眼は眼鏡の奥で灰色に閃った。叔父の友人なら二十七、八というところだろうか。 「書架はどこにある。」 知らないと答える間もなく彼は足早に廊下を進んでいく。 「私も、今日来たばかりで、何も知らないんです…

(改題) 006

夏目漱石の草枕に美女を評する文がある。そこには美しいという単語はひと言も含まれていないのだけれども主人公の男は彼女の魅力に一目見た瞬間に惹きつけられる。恥じらいと慄きにおそらく彼は女の姿を客観的に分析して文章にしてみせた。だから私もその手…

(改題) 005

英語のイディオムの発音にうんざりし始めた頃、勝手口の鍵が大きく音をたてた。参考書を閉じ立ち上がる。叔父か、彼の父か母、もしくは叔母か、家族の誰かがこの家のドアを開けようとしている。叔父はしばらく誰も使っていないからと言ったのに。誰だ。 不登…

(改題) 003

ここへ来るのは多分2度目だ。まだ祖父が生きていた時分に母に連れられたことがあった。病院は賑わっていた。診察を待つ人々で溢れ、働く人々は忙しそうにしていた。幼心にその光景は私に恐怖心を与えた。その感覚がまだ残っていたせいか時を経て変わり切った…

(改題) 001

私がこの家の鍵を受け取ったのは今年の正月の夕食時だった。その鍵は特徴のないステンレス製のどこにでもある鍵だった。それを手のひらにのせて、自由に使っていいよといったのは、母方の叔父だった。叔父といってもそれほど歳は離れてはいない。17歳の当時…

藤棚 006

玲 3 「ほんと---------------なんでそんなヤツが自殺したんだろうな。」独り言のように、考えてもらちのあかない疑問を弾くように言葉にしたとき、嵐がドアを引き剥がすような大音量が鳴り響いた。振り向くと勝手口に玲が立っていた。暴音はヤツがドアを勢…

藤棚 005

玲 2 夕食に呼びに来たのはお手伝いさんだった。俺をこの部屋に通したのもこのおばさんだ。誰が俺にこの部屋を使うよう聞きたかったがやめた。可能な限り関わらないほうが良いと直感のサイレンが頭上に鳴り響いていた。最後の晩餐だ、多分。俺は仕方なく階段…

藤棚 004

玲 25mのプールほどの大きさのある池を大きく迂回して雨風の中やっと縁側へたどり着いたとき、女が、白い靴下を履いた女が立っていた。白い靴下が目に入ったのはただ目線がそこにあったに過ぎない。だから玲という俺の第一印象は学校指定の白い靴下になった…

藤棚 003

風 3 (その曲知っているわ。セイさんがよくひいていたじゃないの、私好きだったのよ。)そういえばそうねともうひとりが相槌を打った。セイさんというのは誰か俺は問うた。二人は顔を見合わせ、一呼吸おき、貴方の先日亡くなった従兄弟だと言った。母の兄の…

藤棚 002

風 2 藤棚の藤は満開であった。満開の花下で俺の叔母たちは隣り合い身を寄せ合いほほえみつつ俺を待ち受けていた。 (なにか、ごようですか。) 我ながら妙な挨拶だとは思うが滅多に会わぬ二人に何を話せばいいのかわからない。 (なにってことは、ないのだ…

藤棚 001

1 風 その日は身体にまとわりつく湿った風が吹き荒れていた。窓を開けると風は勢いよくなだれ込んで部屋中をかき乱した。俺は急いでベッドから起き上がると机上の紙や書籍をつかみ、飛ばされる前に引き出しへ放り込んだ。ニュースではすでに南方は梅雨に入っ…

■008

「クラヴィス、おまえはまだその女に想いを寄せているか。」「ああ。俺の誠意を踏みにじってさえまだ恋心は消えぬ。」「なにゆえに彼女がその品を受け取らずにおいたのかは分からぬ。当代きっての高級娼婦のあのオリンピアだ。俺たちの想像もつかぬ理由があ…

■007

はしばみ色の瞳に白い花の編み込まれた黄金の髪を眺めるばかりだった俺はそのうちひとことふたことと言葉を交わすようになり彼女の知人の一人となった。そして先日俺は彼女の邸宅へ一反の絹を贈った。舶来品の彼女の身につけるに相応しい品物だ。城に住む商…

■006

再び石椅子に腰掛け、俺はだらりと頭を垂れた。昨夜の酒がまだ身体に残っているかのような気分の悪さだった。親友に愚痴を言って何になる。「クラヴィス、おまえ、さてはオランピアに振られたな。」 俺は今どんな表情をしているのだろう。質の悪い汗が背中を…

■005

青白い物憂げな表情をいっそう暗くさせてラーウスは言った。ドアの隙間に挟んであった手紙はお前の小姓が寄越したものだったのか。味も色気もないその手紙を俺は酔いつぶれた身体で読み返し脱いだ服と共に床に放り投げたのを思い出した。 「そうか、それは手…

■004

「そのような子供のお遊びを王はこのまん。眉間の皺が増えるだけだ。以前の術を超える華やかで美しい術を持ち合わせてはいないのか。」 剣術堂へと至る回廊で立ち止まり、俺は石椅子に腰掛けた。 「ラーウスよ。俺が飽き性なのは知っているだろう。幼少のみ…

■003

「お前は、その、あれだ。以前王の前で妙技を披露したろう。それが非常に王の歓心を買ってだな、今日のような暗雲垂れ込め今にも雷を落とす風体のお姿にその技を御覧いただきた多少なりとも健やかな心を取り戻してほしいのだ。」 俺は剣を磨きながら苦虫を潰…

■002

「王は今日はひどく機嫌が悪い。」 端正で神経質な顔の表情を歪めてウーラスは言った。王の機嫌の悪い日以外を俺は知らない。あの人はほぼいつも常時機嫌が悪く、笑うときといえばフラーウスが妙技を優雅に繰り出したときや、ルベルがしてやったり特技を披露…